「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第9話 友達の口づけではありません
翌朝、ミレイユの部屋へ届いたのは、花ではなく短い伝言だった。
九時の朝食に、必ず顔を出せる。支度を終えたら、食堂で。
ドリスがそう告げると、ミレイユは寝台の中で顔を覆った。
昨夜は、自分から彼に抱きついた。
ほんの少しのつもりだった。背中へ腕が回ると、離れるまでに思っていたより時間が掛かった。
「お湯をお持ちいたしました」
「ありがとう。すぐに起きるわ」
「ごゆっくりでも、お支度は間に合いますよ」
「間に合わせたいの」
ミレイユは起き上がった。
朝の光が、昨夜の雨の跡を窓の外へ照らしている。雲の切れ間は大きくなり、庭の芝生が明るかった。
食堂へ入ると、母は先に席へ着いていた。
オーウェンも、もう来ていた。
彼が立ち上がる。
「おはよう」
「おはようございます」
母の前だからか、いつもよりかしこまった声になった。
彼の隣へ座り、膝へ布を広げる。昨夜、この人の胸へ頬を寄せたのだと考えると、カップを持つ指まで熱くなった。
「よく眠れた?」
母が尋ねた。
「ええ」
「それはよかったわ」
それだけで終わったので、ミレイユはかえって母を見た。母はパンに果実の煮詰めたものを塗っている。
「オーウェン、川はどうなったの?」
「夜半から雨は弱まったようです。今朝の見回りでも、土手に崩れはありません。ただ、上流の水が下りてくるので、本流の岸へは近づかないでいただきたいのです」
「もちろんよ。わたくしは午後まで、あの明るい部屋で本を読もうかしら」
母の目がミレイユへ向いた。
「あなたは?」
「少し外を歩きたいわ。庭だけでも」
「庭と西側の散歩道なら、もう使える」
オーウェンが言った。
「昼までは空けてある。よければ案内したい」
「ええ」
ミレイユの返事が早かったので、母が笑った。
食後の予定が、あっという間に決まった。
オーウェンがパンをもうひと切れ取ると、ミレイユは彼の皿を見た。
「その煮詰めた果物、少し酸っぱいわよ」
「それなら、なおさらいい」
「甘いほうが、お好きではなくて?」
「甘い菓子も好きだが、朝はこれくらいのほうがいい」
「知らなかったわ」
ミレイユは自分の皿にも少し取ってみた。
確かに酸っぱかった。顔をしかめるほどではないが、彼と同じ量を載せたのは失敗だった。
オーウェンはミレイユを見ていた。
「無理はしなくていい」
「無理ではないわ。次は、少し薄く塗るだけ」
彼が、新しいパンを彼女の皿へ置いた。
ミレイユは半分にして、先ほどのパンと重ねた。
「これで、ちょうどいい」
「なるほど」
「何でも、ご存じのつもりにならないでね」
「君がそうして食べるのは、初めて知った」
母が静かにお茶を飲み、そのあいだは二人に話させてくれた。
西へ延びる道は、緩い坂になっていた。
木々の影に湿った土が残っていたが、踏み石の上は乾き始めている。ミレイユは厚めの靴を履き、裾を少し持ち上げて歩いた。
オーウェンの歩幅が、いつもよりゆっくりだった。
「わたくし、もう少し速く歩けるわよ」
「そうか」
「そうよ。子供ではないのだから」
「では、俺が急がず歩きたいことにしてくれ」
隣を見ると、彼は楽しそうだった。
ミレイユも歩調を緩めた。
道の向こうで水が光った。川の本流ではない。堤防の内側に残された、細長い池だった。昔の流れの跡だと彼が説明した。
淵の近くには石が多く、反対側には葦が生えている。
「ここは大丈夫なの?」
「今朝、庭師が確かめている。池に川の水は入っていない。石敷きから先へ下りなければ、足元も平らだ」
ドリスも少し後ろからついてくる。池の端で立ち止まると、別邸の屋根が木々の上に見えた。
ミレイユは、石敷きの脇に落ちていた小石を見つけた。
薄くて、片方だけが丸い。
指で摘まみ、泥を払った。
「まだできるかしら」
「水切り?」
「あなた、覚えているでしょう」
「君に挑まれてから、何度か試した」
その返事に、ミレイユは振り返った。
「公爵様が?」
「石を投げるくらいはする」
「家令はご存じなの?」
「さあ。止められたことはない」
ミレイユは池へ向き直った。
肩を回してみると、ドレスの袖が少しつれた。腕を上げすぎず、横から投げる。石は水面へ届き、一度跳ねて沈んだ。
「一度」
オーウェンが言った。
「見えていました」
「審判が必要だろう」
「あなたも参加なさるなら、審判はできないわ。ドリス、数えてくださる?」
侍女は心得顔で頷いた。
「お任せくださいませ」
オーウェンが屈み、二つの石を選んだ。
一つをミレイユへ差し出す。
「こちらのほうが、投げやすい」
「相手へいい石を渡して、負けた時の言い訳にするつもり?」
「負けるつもりはない」
彼が投げた石は、三度跳ねた。
ミレイユは、渡された石を指先で確かめた。なるほど、平たくて持ちやすい。
彼の動きを思い出し、腕を振る。
二度、跳ねた。
「悪くないわ」
「もう少し、低くてもいい」
「そう言われても、どこまで低くすればいいのか分からないの」
ミレイユが次の石を拾うと、彼が近くへ来て、手を出した。
ミレイユはそこへ、石を持つ手を載せかけた。
「違う。君の手で投げるところを見せてくれ」
「教えてくださるのではないの?」
「こう持って」
オーウェンも小石を一つ拾い、自分の指で挟んでみせた。
長い指と、自分の短い指では、同じ持ち方をしているように見えなかった。ミレイユは指の位置を直し、彼の顔を見た。
「これで?」
「ああ。肘を上げすぎないで」
「ここ?」
彼がミレイユの肘の下へ軽く指を添えた。
触れているのは、袖越しのわずかな場所だけだった。
昨夜は、もっと近くにいたのに。
手元の石よりも、腕へ添えられた指のほうが気になる。
「今度は、向こうを見て」
「見ているわ」
「俺ではなく、水面を」
ミレイユは、慌てて向き直った。
投げた石は一度も跳ねず、まっすぐ水へ落ちた。
ドリスが慎重な声で告げた。
「ただいまは、零でした」
オーウェンが笑いを堪えるのが分かった。
「おかしい?」
「いや」
「口元に出ています」
「君が俺ばかり見るから」
ミレイユは、彼の上着の袖をつまんだ。
「あなたが近づくからでしょう」
彼の笑いが止まった。
けれど袖をつまんだ手は、自分から放せなかった。
「投げている時には、近づかないで」
「分かった」
「終わってからなら、いいの」
オーウェンの目が、ミレイユの指へ落ちた。
彼が何かを言うより先に、ミレイユは手を放して次の石を拾った。
今度こそ水面だけを見る。
腕を横へ振ると、石は三度跳ね、最後に小さな波紋を残した。
「三度です」
ドリスの声に、ミレイユは思わず手を叩いた。
「同じね」
「ああ」
「勝つまで続けたとは、仰らないでね。まだ同じですから」
「今日のところは、引き分けにしておくか」
彼が差し出した手へ、ミレイユは自分の手を載せた。
今度は、投げ方を教えてもらうためではなかった。
池から少し離れた高台に、長椅子が置かれていた。
夜の雨を避ける布が掛けられていたらしく、庭師が朝のうちに外したとオーウェンが言う。確かに、座面は乾いていた。
二人が腰を下ろすと、ドリスは道の手前で、別邸から来た庭師と短く話をした。その後もそこに立ち、通り道を空けている。
葉の間から、日が射した。
ミレイユは繋いだ手を見た。自分の手袋に、石の汚れがついている。
「汚してしまったわね」
「俺もだ」
オーウェンは手を離して手袋を外し、上着のポケットから布を取り出した。
ミレイユも手袋を外す。彼が布を渡してくれたので、指先を拭った。
返そうとした時、彼の手の甲に小さな傷を見つけた。
昨日できたばかりのものではない。もう乾きかけている。
「これは?」
「三日前、引き出しの金具にぶつけた」
「お仕事の傷かと思ったわ」
「書類を取ろうとしていたから、そう言えなくもないが」
可笑しくなった。
川のそばで、働く人に指示をする彼を見た。夜には、約束をしすぎた失敗の話を聞いた。公爵の手にも、机の角や金具はぶつかる。
ミレイユは傷へ触れず、その脇の皮膚を親指で撫でた。
オーウェンが、彼女を見た。
「ミレイユ」
「何?」
「そうして触られると、石投げの続きを考えられなくなる」
彼女は顔を上げた。
からかう声ではなかった。
頬が熱くなる。けれど、手を引きたくはなかった。
「もう、終わったでしょう」
「ああ」
「では、別のことを考えてくださっていいわ」
彼の視線が、ミレイユの口元へ下りた。
ミレイユは唇を結びかけ、やめた。
昨日の抱擁を、思い出していた。
彼の上着の匂い、背中に回った腕の強さ。親しい友人なら抱き合うこともあると、自分へ言い聞かせることはできる。
でも、自分が望んでいるものは、それだけではなかった。
「わたくしは、あなたといると、笑ってしまうの」
彼の目が、もう一度彼女の目を見た。
「君を怒らせることも、ある」
「そうね。今も、少し腹が立っているわ。石を選ぶのも、投げるのも、あなたのほうが上手で」
彼の口元が緩んだ。
「でも、明日はわたくしが勝つかもしれないと思える。失敗したら、もう一度やりたくなる。あなたに、こんなことも知らないのかと言われる心配をしなくていいの」
「言わない」
「ええ。でも、それだけではなくて」
ミレイユは、彼の手を握り直した。
「あなたが、わたくしを困らせようとしているのを見るのが、好きなのよ。公爵様が、わざわざそんなことを考えているのが」
「好きな相手には、俺のことを考えていてほしい」
「十分、考えているわ」
声が小さくなった。
「昨日の夜も。今朝、起きてからも」
彼が、空いている手を上げた。
ミレイユの頬へ、指の背がそっと触れる。
「俺も。朝食で、君が目を合わせてくれなかった時は、困った」
「見たら、分かってしまうでしょう」
「何が?」
「もっと、触ってほしいと思っていることが」
言い終えると同時に、彼の指が止まった。
ミレイユはその手を捕まえ、自分の頬へ当てた。
「お友達の口づけを、望んでいるのではないわ」
オーウェンの瞳が、すぐ近くにあった。
「それなら、同じだ」
彼の手が頬を包んだ。
「君が手を伸ばしてくれるたびに、嬉しくて、もっと近くに来てほしくなる。俺のことを知って、知るほど欲しがってほしい」
ミレイユは彼の上着をつかんだ。
「もう、そうなっているのに」
彼が身を屈めた。
目を閉じる前に、彼の表情を見た。いつもの余裕が消え、自分だけを見ていた。
唇が重なる。
思っていたより温かく、短かった。
離れても、ミレイユは上着をつかんだままだった。
「……それだけ?」
彼の息が、額へ触れた。
「君が、どんな顔をするか見たかった」
「今は、見ないで」
ミレイユはつかんだ上着を引き、自分から顔を上げた。
二度目の口づけは、彼の腕の中で受けた。
背に添えられた手へ力が入り、自分も彼の肩へ手を回した。唇が離れるまで、何も考えられなかった。
額を彼の胸へつけ、息を整える。
頭の上で、オーウェンが長く息を吐いた。
「ミレイユ、少しだけ、ここにいて」
「もう少しよ」
彼の腕が、彼女を抱き直した。
別邸へ戻る道では、石の数をもう一度確かめようと、彼が言い出した。
ミレイユは顔を上げた。
「三度と三度で、引き分けでしょう」
「その前の二度は、足す?」
「今から数え方を変えてはいけません」
「では、次の勝負をしてもらわないとな」
「わたくしが勝ったら、何をしてくださる?」
オーウェンが、繋いだ手へ目を落とした。
ミレイユも同じところを見て、先に笑ってしまった。
「考えておくわ。今決めると、あなたの思いどおりになりそうだから」
「今も、君にずいぶん振り回されている」
「お嫌?」
「気に入っている」
その返事を、ミレイユは歩きながら何度か思い出した。
帰都する前日の夕方、二人は赤い帆の船を見た。
玩具船は、窓辺の台に置かれていた。外で浮かべるには、晴れた日をもう少し待つほうがいい。オーウェンが帆の端を指で軽く直すと、ミレイユも覗き込んだ。
「今日は、これを浮かべなくてよかったわ」
「どうして?」
「水の中まで追いかけたくなったら、困ったでしょう」
「水には入らない。その時は、庭師に竿を借りよう」
「分かっています。だから、まだ大事に取っておくの」
ミレイユは船の脇へ触れた。
また訪ねてくる理由が、一つここに残る。
けれど、そのためだけに何かを残しておく必要もないのだと思った。
「川開きができるようになったら、わたくしも行きたいわ」
オーウェンは顔を上げた。
「もちろん、知らせる」
「あなたのお友達としてではなくて」
彼が彼女の手を取った。
「俺の恋人として?」
「ええ。あなたの隣へ、自分で行くわ」
「それは、とても嬉しい」
彼の声が、わずかに低くなった。
ミレイユは彼の指へ自分の指を絡めた。
「その日、あなたはお忙しいのでしょう。でも、ちゃんとわたくしを見つけてね」
「見つける」
今度は、約束してくれた。
ミレイユは彼へ一歩近づき、もう知っている距離まで顔を上げた。