「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第12話 特別という言葉の値段



「ミレイユ。まずは座ったらどうだ」
 ハロルドはモードの隣へ行く前に、こちらへそう言った。
 ミレイユは返事をせず、委員長夫人を見た。夫人が椅子を勧めたので、母の隣へ腰を下ろす。立ったまま言い争う必要はなかったが、彼の指図で話が終わったと思われたくもなかった。
「モードも、君にこんなふうに言われて驚いているんだ。彼女は昔から、少し気が回りすぎるところがある。それで言葉が足りなかったのだろう」
「どのお話をなさっているか、ご存じですか」
「川開きのことで、彼女が余計な口を挟んだと」
「余計な口を挟んだのではありません。わたくしが頼んでもいない欠席の伝言を、頼まれたと言って伝えたのです」
 ハロルドはモードを見た。モードは彼の目を捉え、眉を下げた。
「わたくし、ミレイユ様を心配していたのよ。ほら、あなたも、最近はずいぶん意地を張っていらっしゃると話していたでしょう」
「ああ、だが」
「それで、今はそっとしておいた方がよいと思って。園遊会にはお元気な姿を見せていただけたらと、そういうつもりだったの」
 モードが彼の袖へ手を伸ばした。ハロルドはその手を払わなかったが、すぐ同意することもできないようだった。
 夫人が口を開いた。
「バートラム様。私が伺ったのは、ロックウッド嬢から頼まれた伝言でした。お気持ちを推し量ったご意見ではありません。その違いは、お分かりになりますね」
「はい。それは、もちろん」
「では、フリント嬢ご本人から訂正をいただきたいのです。ここにいる者が、間違った事情を覚えたままでよいはずはありませんから」
 モードの指が、彼の袖から離れた。
「わたくしが嘘つきだというの?」
 今度の問いは、ミレイユへ向けられた。
「頼まれたという言葉は、事実ではありません。取り消してください」
「わざとあなたを困らせたわけではないわ」
「わたくしは、困りました」
 モードは口を閉じた。
「楽しみにしていた予定を、知らないところで取りやめられかけました。その上、恥ずかしくて家を出られないと、こちらの皆様に思われました。ご自分が親切だったかどうかをお話しになる前に、そのことを認めてください」
 膝の上で握ったミレイユの手を、母が一度だけ押さえた。彼女は指を緩め、顔を上げた。
 ハロルドが身じろぎした。
「君がそこまで嫌だったとは、彼女も思わなかったんだろう。僕も、君ならもう少し穏便に」
「わたくしが穏便に済ませると思うから、もう一度なさったのですね」
 彼が眉を寄せる。
「もう一度?」
「誕生日のお祝いの日にも、わたくしの予定を変えるようおっしゃいました。あなたはモード様の集まりへ行き、わたくしには自分の客へ謝るようにと」
 モードが顔を上げた。
「あの日は、お互いの都合が重なってしまっただけでしょう」
「あなたは、わたくしの誕生日を知っていました」
「知ってはいたけれど」
「ハロルド様が、お祝いの席へ来る約束をしていることも」
 ハロルドは何も言わなかった。彼が答えなくても、隣にいるモードが目を伏せたので、知らなかったとは言えなくなった。
 ミレイユは彼を見た。
「モード様にそうしてほしいと言われて、あなたはわたくしの予定を変えようとなさいました。あれも、あなた自身が決めたことです。それを、わたくしが意地を張っているというお話に変えないでください」
 椅子の木が小さく軋んだ。ハロルドが背にもたれようとして、やめたのだった。
「……あの日、僕が行かなかったのは事実だ」
「予約を取り消すようにと?」
 委員長夫人に確かめられ、彼は低く答えた。
「はい。僕が、そう頼みました」
 モードの隣にいる彼は、いつもなら話をまとめる役だった。ミレイユが譲り、モードは笑い、彼は二人とも大切にしている顔をする。
 今日は誰も、その顔を褒めなかった。
 準備を手伝う女性の一人が、それまで膝に置いていた名簿を閉じた。
「フリント嬢。私たちは、ロックウッド嬢の体調やお気持ちまで疑って確かめたくはありませんの。ご本人の名で伝える時には、本当に頼まれたことだけをお願いしたいわ」
 柔らかな言い方だったが、モードの頬は一層赤くなった。
「分かりました」
「何が分かったのか、皆様にお伝えください」
 ミレイユの言葉に、モードが扇を膝へ置いた。指を一本ずつ離してから、夫人たちへ向き直る。
「ミレイユ様から、欠席を頼まれたわけではありません。わたくしが、ご本人のお気持ちを考えて、そうお伝えしました。ご本人は出席を望んでいらっしゃいます」
「婚約解消を恥じているということも、わたくしは申しておりません」
「それも……わたくしが、そう思っただけです」
「ありがとうございます。では、ほかに同じお話をなさった方にも、訂正をお願いいたします」
 モードは小さく頷いた。
 委員長夫人が続けて、どなたへ伝えたか尋ねた。モードはハロルドと、侯爵家の家令に話したと答えた。園遊会ではミレイユが彼を手伝うから、川開きの件で彼女に尋ねなくてよいとまで言ったらしい。
 母が夫人へ礼を述べたあと、ミレイユを見た。帰ろうという目だった。
 ミレイユは立ち上がった。
 ハロルドも立ちかけたが、母は先に夫人へ挨拶をした。彼に送ってもらう理由はなかった。
 玄関へ向かう途中、客間からモードの声が漏れた。
「ハロルド。わたくし、悪く思われるためにしたのではないのよ」
 彼がどう答えたかは、扉が閉まり、聞こえなかった。

 帰りの馬車で、ミレイユは背もたれに肩を預けた。
「疲れた?」
「少し」
 母はそれ以上尋ねず、娘の手から、畳んだままの手袋を取ってくれた。いつ脱いだのかも、覚えていなかった。
「モード様が、最後まで謝ってくださらなかったわ」
 口に出してみて、初めて自分がそこを気にしていたと分かった。
「訂正はいただけたのに、まだ不満があるのは欲張りかしら」
「謝ってほしいと思ってもいいでしょう。ただ、あの方が心からそう思うまで、あなたの予定を止めておくことはないわ」
「そうね」
 ミレイユは窓へ目を向けた。馬車が菓子店の前を通り、軒の下から小さな子供が手を振っている。こちらにではなく、後ろの馬車へ向けていた。少し遅れて、その馬車から父親らしい男が手を振り返した。
 ミレイユも、早く帰りたくなった。
 ロックウッド邸の門をくぐると、庭にオーウェンがいた。庭師と話しながら、倒れた鉢を起こすのを手伝っている。馬車に気づき、手についた土を払った。
 ミレイユは家人に扉を開けてもらうと、彼が来るのを待たずに歩き出した。
「お帰り」
 その声を聞いた途端、胸がいっぱいになった。
 ここは彼の家ではない。それでも、待っていてくれた人の声に迎えられると、ようやく帰った気がした。
「ただいま」
 すぐ後ろに母がいるので、抱きつきはしなかった。代わりに、オーウェンの腕に手を添える。彼は指先まで見て、それから顔を覗き込んだ。
「今は、どこへ行きたい?」
「庭を歩きたい。お話もするけれど、先に少し、歩きたいわ」
「では、行こう」
 母に断り、二人で小道へ入った。彼は聞き出そうとしなかったので、ミレイユも、起こったことを順番に話さなくてはと考えずに済んだ。
 噴水のそばまで来たところで、彼の腕をつかむ手に力を入れた。
「訂正は、していただけました」
「よかった」
「嬉しいというより、ほっとした感じ。怒っていた分、少し疲れました」
「今日はもう、難しいことをしなくていい?」
「あなたが持ち込まなければ」
「分かった。俺は、君をどうやって笑わせようかと考えるだけにする」
 ミレイユは足を止めた。
「そのための用意をしていらしたの?」
「何も考えつかなかったので、庭師に相談していた」
「嘘ばかり」
「鉢は本当に倒れていた」
 笑うと、彼の顔も緩んだ。ミレイユは腕から手を離し、彼の胸元へ指先を置いた。
「昨日の約束を、覚えていらして?」
「忘れられると思う?」
 オーウェンが辺りへ目を配った。庭師は道の向こうで仕事へ戻り、母の姿はもう窓辺にもない。
 彼の手が腰に触れる。ミレイユはその腕へ身を寄せた。
 口づけのあと、彼の上着へ額をつけたまま、しばらく笑っていた。
「何がおかしい?」
「あなたに会いたくて帰ってきたのに、会うと、こうしたくなるの」
「困るほど嬉しいことを、普通の顔で言う」
「普通の顔に戻るまで待ってから、言っていますもの」
 彼は返事の代わりに、もう一度彼女を引き寄せた。

 その二日後、バートラム侯爵家から、母とミレイユへ来訪を願う手紙が届いた。
 園遊会について確認したいことがあるという、侯爵夫人自身からの依頼だった。ミレイユは母と相談し、訪ねることにした。
 案内された小客間のテーブルには、園遊会の客名簿と、花の配置図が置かれていた。以前ミレイユが幾度も覗いた品だったが、今年は初めて見る。用紙の端に、モードの筆跡で書かれた飾りの案があった。
 侯爵と夫人は揃って迎えた。ハロルドは窓のそばに立ち、モードも椅子に座っていた。
 夫人は挨拶を済ませると、ミレイユへ頭を下げた。
「家令に伝わったお話を、フリント嬢から訂正していただきました。あなたが園遊会で息子を手伝うというのも、承知なさってはいなかったのですね」
「はい。先日お目にかかった折にも、お断りいたしました」
 ハロルドが顔を上げた。
「母上。僕は、時間があればと頼んだだけで」
「時間があると、聞いたの?」
 侯爵夫人の問いに、彼は答えなかった。
 夫人はテーブルの名簿を手に取り、息子が客迎えをする予定の欄を見た。傍らに添えられていたミレイユの名を、ペンで消す。
 その動作を見て、ミレイユは息を吐いた。こんな小さな文字にまで、自分の知らない役割が決まっていた。
「お断りしたことで、夫人にご迷惑がかかるとは存じませんでした」
「あなたはお断りになったのだから、迷惑をかけた方ではありませんわ」
 夫人は顔を上げ、今度はモードを見た。
「あなたにも、花の取りまとめをお願いしていましたね。ですが、今年は私の方で手配を戻します。店への追加の連絡も、家令を通すようにします」
 モードは驚いて、姿勢を正した。
「もう、ほとんど決まっておりますわ。今から変える必要など」
「知らないうちに、どなたかのご都合を変えてしまっていないか、私が確かめたいのです」
 言い方は穏やかだったが、モードは次の言葉を失った。
 侯爵が配置図を取り、家令へ渡した。
「ハロルド。客迎えも私と妻で行う。お前は招かれた方々に、いつもどおり挨拶をしなさい。誰かに隣へ立ってもらわなければできないことではない」
「父上、それでは、僕が何か失敗したように」
「したんだ」
 侯爵の返事は短かった。
「相手が承知していないことを、引き受けてもらったつもりで準備をした。しかも、断られたあとにも、そのままにしていた。家の催しを任せる相手としては困る」
 ハロルドの顎が動いたが、言い返す声にはならなかった。
 モードがそっと立った。
「わたくしがいれば、お客様のご案内くらいはできますわ。ハロルドとも、息が合っておりますし」
「あなたには、ご自分の招待状に記載した時刻にお越しいただきます」
 侯爵夫人はそう答えた。
「お支度のために朝からいらっしゃる必要は、今年はございません」
「……でも、いつもは」
「今年は、そのようにいたします」
 モードはハロルドを見た。彼の助けを待つ目だったが、彼は父親の方を向いたまま動かなかった。自分の役を外されたことで、彼女のために言葉を探す余裕もなさそうだった。
 ミレイユは、その二人を長く見てはいなかった。
 侯爵夫人へ改めて礼を述べ、母と立ち上がる。これからの準備を、自分が埋め合わせる必要はなかった。
 玄関で馬車を待つ間、母が小さく言った。
「これで、展示の予定も変えずに済むわね」
「ええ。お茶のあと、少し歩くことにしたの」
「それは楽しそう」
「帽子も、その時にまたかぶります」
 ミレイユが笑うと、母は彼女の肩に落ちた細い糸を摘まんで取った。

 川開きに着るドレスの最後の仮合わせは、その翌日だった。
 仕立屋に頼んで、ロックウッド邸へ来てもらった。淡い緑の生地に、袖口と胸元だけ銀糸で蔓を入れる。歩く時に足元が見えにくくならないよう、裾はいつもの夜会服より軽くした。
「少し、地味でしょうか」
 鏡の前で尋ねると、ドリスは即座に首を振った。
「とてもよくお似合いです。お帽子のリボンとも合います」
 母も頷き、仕立屋は肩の皺を直した。ミレイユは両腕を広げ、もう一度下ろした。川風の中でも歩けるし、彼の腕を取るのに窮屈ではない。
 最後に帽子をかぶり、鏡の中の自分を見た。
 彼がどんな顔をするか、早く知りたくなった。
 仮合わせが終わる頃、オーウェンが迎えに来た。庭を散歩する約束だったのだが、ミレイユは母に断って、そのままの姿で応接間へ入った。
 立ち上がった彼が、何も言わなくなった。
「おかしいかしら」
「いや」
「では、何かおっしゃって」
 彼は自分の口元に手を当て、困ったように笑った。
「本番まで見せてくれないと思っていたので、何の用意もしていなかった」
「褒める用意が必要なの?」
「とても綺麗だと思った時に、普通の顔をする用意」
 ミレイユは笑おうとしたが、鏡の前より顔が熱くなった。彼は近づき、帽子に触れないよう、少し低く顔を寄せた。
「当日、君を見て、今のように黙ったら悪いね」
「今度は分かります。考えが足りなくて、褒められないのだと」
「違う。見ていたいんだ」
 声が近くなり、彼女は目を逸らした。ドリスが入口にいる。母もすぐ隣の部屋だ。分かっていて、彼は彼女だけを見ている。
「当日は、ちゃんと歩いてくださいね。馬車へ乗るまで、立ち止まってばかりでは困ります」
「努力する」
「確かなお返事ではないわ」
「君がその格好をしているのが、悪い」
 彼の言い分に笑って、ミレイユは腕を差し出した。彼が取ったのは肘ではなく手の方で、指先へ口づけられた。
 ドリスが、控え目に咳をした。
「お召し替えをなさいますか。このままお散歩なさると、裾が汚れてしまいます」
「着替えます」
 ミレイユが即答すると、彼は残念そうに手を離した。
 部屋へ戻る前に、一度振り返った。
「オーウェン。川開きが終わったら、今度は、あなたの普段の一日を教えて」
「普段の?」
「朝、何時に起きて、仕事が済んだら何をして、何を面倒に思うのか。いつも招かれて行くから、わたくしが知らないことも多いでしょう」
 彼の表情が変わった。すぐにからかわれると思ったのに、嬉しそうな、少し慎重な顔だった。
「教える。君の一日も、もっと知りたい」
「わたくしは、朝があまり早いと不機嫌よ」
「そこは知っている」
「では、それ以外を」
 彼は頷いて笑った。
 ミレイユも笑い返し、今度こそ着替えに向かった。階段を上がる途中で、帽子のリボンが肩に触れた。
 早く当日になってほしかった。それと同じくらい、その先にも聞きたいことが増えていた。
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