「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第13話 今度だけ、僕を選べ



 川開きの朝、ミレイユは窓の外を三度確かめた。
 雲はあったが、薄い。前日の仮合わせを終えてから、母とともに領地へ来て、この別邸に泊まった。枝の先まで日が差し、前庭では、馬の背を磨く男たちが上着を脱いでいた。
「四度目は、わたくしが見てまいりましょうか」
 ドリスに言われ、窓から顔を戻す。
「気になるでしょう。これだけ晴れていると、途中で雨が降るのではないかしら」
「お嬢様のお支度は、雨が降っても間に合います」
「わたくしではなくて、式の心配よ」
 侍女は返事の代わりに、鏡の中で微笑んだ。
 いつもなら、相手が到着する頃合いに合わせて身支度を終えていた。今日は早く支度を済ませすぎて、落ち着かない。髪も靴も整っているのに、もう少し何かできないかと椅子から立ってしまう。
 昨日、オーウェンは夕食を終えると、朝の予定を教えてくれた。工事責任者と一緒に橋を確かめ、行事委員と開会の打ち合わせをし、その後、広場で落ち合う。忙しくなるけれど、昼の祝賀馬車には一緒に乗りたい、と。
 ミレイユは、自分もそうしたいと答えた。
 何時までに迎えに来るという約束はしていない。合流する場所と、遅れたときに誰が知らせるかを話し、それから二人で、昼に何を食べようかと相談した。
 その相談を思い出しただけで、口元が緩む。
「お嬢様」
「何?」
「今のお顔でいらっしゃれば、もう何も足さなくてよいと思います」
 ミレイユは鏡を見て、少し赤くなった。

 橋のたもとの広場は、すでに大勢の人で賑わっていた。
 岸に並んだ旗の間から川面が見える。先日までの濁りは薄れ、橋脚の周りを流れる水が白く光っていた。新しい板の匂いに、焼いた菓子と馬の匂いが混じる。
 伯爵夫人と馬車を降りると、行事委員の夫人が迎えてくれた。
「よいお天気になりましたね。お席はこちらです。公爵閣下は向こうで、最後の確認をなさっています」
 夫人の指した先に、オーウェンの姿があった。
 欄干に片手を置き、工事責任者の話を聞いている。式典用の服を着ていても、こちらから見える顔つきは、雨の日に職人たちの前に立っていたときと変わらない。責任者が何かを指すと、すぐに同じところへ目を向けた。
 彼が顔を上げる。
 広場を挟んで目が合った。
 ミレイユが小さく手を振ると、オーウェンは頷き、口だけを動かした。
 あとで。
 読めた気がして、彼女も頷き返した。
「お母様、先にお席へいらして。わたくし、少し旗を見てきます」
「川へ近づきすぎないでね」
「欄干の外には出ません」
「あなたは昔から、そう言うときほど危ういのよ」
 母の言葉に、そばの夫人まで笑った。
 ミレイユは笑って手を振り、岸とは反対の、屋台が並ぶほうへ歩いた。小さな店に飾られた紙の風車が、一斉に同じ方向へ回る。青いものを一つ手に取っていると、後ろから名を呼ばれた。
「ミレイユ」
 肩越しに振り向く。
 ハロルドがいた。
 きちんと結んだ襟元も、磨かれた靴も、春の祝いにふさわしかった。それなのに、彼は少しも楽しそうに見えない。彼女の手にある風車へ目を落とし、すぐに顔を上げた。
「一人かい」
「今は」
「少し話せるだろうか」
「長いお話なら、今日はお受けできません」
 彼は一度、唇を結んだ。
「長くはない。母が、君に挨拶したいそうだ」
 ミレイユは人の流れの向こうへ目をやった。来賓用の天幕に、バートラム侯爵夫人の姿が見える。息子のほうを見ていた夫人は、ミレイユと目が合うと、控えめに会釈した。
 彼女も礼を返す。
「ご挨拶なら、喜んで。お母様にはお世話になりましたもの」
 それを聞いた途端、ハロルドの顔が明るくなった。
「よかった。では来てくれ。母の隣に席もある」
「ご挨拶に伺うだけです。わたくしの席は、もうありますから」
 彼は差し出しかけた腕を下ろした。
「席は、どうにでもなるよ」
「わたくしは、ならないと思います」
 風車を店主へ返し、礼を言う。ハロルドがまだ何か言いかけていたので、屋台の前を塞がないよう、広場の端へ一歩移った。
 彼もついてきた。
「母には、今日は君と一緒に過ごすと言ってあるんだ」
 ミレイユは返事をせず、彼を見た。
「せっかく、久しぶりに揃って出かけてきたんだ。父は仕事で遅れる。母を一人にはできないだろう」
「ハロルド様が、ご一緒にいらっしゃいます」
「そういう意味ではなくて」
「わたくしとご一緒だと、いつお決めになったのですか」
 声を荒らげるつもりはなかった。ただ、本当に知りたかった。
 先日、園遊会で隣に立ってほしいという頼みは断った。元の婚約者の役目は、もう引き受けないと伝えたはずだ。今日のことも、誰かが話をつけてくれると思っていたのなら、ここで確かめる必要がある。
 ハロルドは、通り過ぎる紳士に挨拶し、その背中が遠ざかってから、低い声になった。
「君が来るなら、顔を合わせると思った。母に余計な心配をかけたくなかったんだ」
「では、お母様には、まだわたくしがハロルド様とお約束していないとお伝えください」
「今さら、そんなことを言わせるのか」
「今、そう言えばよいだけでしょう」
 彼の眉が寄る。
「母は楽しみにしていたんだよ」
 ミレイユは、天幕のほうをもう一度見た。
 侯爵夫人は、隣に座った女性と言葉を交わしている。彼女は何も悪くない。息子の言葉を信じて、今日を楽しみにしていたのだろう。
 だからこそ、本人の知らないところで、嘘の続きを演じるつもりにはなれなかった。
「わたくしから、ご挨拶のときにお話ししましょうか。お母様を責めるような言い方はいたしません」
 ハロルドは、その申し出にも頷かなかった。
「そうじゃない。少し、僕の立場も考えてほしい」
 彼は手袋をした指を握り、また開いた。
「友人にも、君と話せたら、いずれまた一緒に出かけることになるだろうと言った。父はあの件以来、僕に任せていたことを自分で確かめている。園遊会の支度も、母に戻した。僕は、君とさえ普通に話せれば、ここまで大げさにならなかったと言ったんだ」
 胸の奥が、不快に縮んだ。
 彼はまだ、彼女が穏やかに隣へ戻りさえすれば、何もかも収まると思っている。
「園遊会のことは、侯爵様がお決めになったのでしょう」
「それは分かっている」
「では、わたくしが今日どなたと過ごすかには、関係のないことです」
「関係はあるよ。皆、僕たちのことを見ている」
 ハロルドは、そこで一歩近づいた。
「今日一日だけでいい。僕の相手をしてほしい」
 彼女の目を、まっすぐに見た。
「食事をして、馬車の列を見て、母に挨拶をする。それだけだ。君に結婚しろと言っているんじゃない。今日くらい、昔の婚約者として僕を選んでくれてもいいだろう」
 昔の婚約者。
 彼の口から出たその呼び方を、ミレイユは初めて聞いた。
 もうその役ではないと、彼自身が言っているのに、その役目だけを求めてくる。
「お断りします」
 ハロルドは、うまく聞こえなかったような顔をした。
「一日だけなんだ」
「今日は、オーウェンと過ごします」
「公爵には大勢の客がいる。君が少し離れたところで、困りはしないさ」
「わたくしが、一緒にいたいのです」
 彼の視線が、橋のほうへ動いた。
 オーウェンはまだ、行事委員たちと話している。こちらのやり取りには気づいていない。
「幼なじみと遊ぶのは、またの機会でもできるだろう」
「恋人と過ごす約束を、別の男性のために取りやめるつもりはありません」
 言ってから、顔が少し熱くなった。
 照れると分かっていても、曖昧にはしたくなかった。
 ハロルドは、何かを飲み込むように喉を動かした。
「君たちは、昔から親しかった。それは知っている」
「はい」
「だから、今さら周りが妙なことを言いだすような付き合い方をしなくても」
「妙なこと、とは?」
「君は……婚約を解消して、まだ日も浅い。幼なじみが急に恋人になったと言えば、いつからそうだったのかと、考える人もいる」
 彼の声には、気遣いを装う慎重さがあった。
 けれど目の奥は、彼女の怯えを待っていた。
 ミレイユは、歩きやすいように持ち上げていた裾から手を離した。
「ハロルド様」
「僕は、君の評判を心配して」
「わたくしは、婚約を終えてから、オーウェンのお誘いを受けました。そのことを隠しておりません。ご存じの方もいます」
 母も父も、彼の大叔母も知っている。彼女が自分から交際を望んだことまで、すべての人に話す必要はないが、恥じることもなかった。
「事実と違うことをお話しになるなら、わたくしも、違うとお伝えします。今日のお約束のことと同じです」
 彼は口を開き、そのまま閉じた。
 ハロルドは天幕の方へ目をやった。
 ミレイユも侯爵夫人を見た。顔を合わせるなら、誤解されたままで挨拶を済ませることはできない。
 今日は、楽しみにしてきた日なのだ。
 オーウェンと橋を渡り、屋台を覗き、彼が言っていた川魚の揚げ物を食べる。夕方には、今日の服を彼がどう思ったのかも聞きたい。
 そのために朝、何度も窓を覗いた。
「わたくし、行きます」
「待ってくれ」
 ハロルドが手を伸ばした。
 ミレイユは、届く前に一歩下がった。
 彼の手は、何も掴まずに止まった。
「そんなふうに避けることはないだろう」
「お話は終わりましたから」
 広場の向こうで、楽団の音が揃い始めた。
 手を叩く音がして、旗のそばにいた子供たちが走りだす。開会を知らせる係が、人々を来賓席と立ち見の場所へ案内していた。
 ミレイユは、もう一度天幕を見た。侯爵夫人がこちらを見ている。
 彼女はハロルドを残し、そちらへ歩いた。
 夫人の前に立つと、丁寧に頭を下げる。
「ご挨拶が遅くなりました。本日は、よいお日和で何よりでございます」
「ええ、本当に。ミレイユさん、あの……」
 夫人は、息子へ目を向けた。
 ミレイユは、夫人が言いにくそうにしていることを察した。
「わたくしは、本日、チェスター公爵とご一緒するお約束をしております。ハロルド様とは、先ほど偶然お会いしました」
 夫人は、すぐには何も言わなかった。
 ミレイユを見て、それから息子を見る。立ったままのハロルドが何かを言うより先に、夫人は椅子の背へ手を置いた。
「そうでしたの。それなら、どうぞお約束のほうへ。あなたをお引き留めしてはいけませんね」
「ありがとうございます」
「楽しんでいらして」
 その言葉に、ミレイユはようやく柔らかく笑えた。
「はい。夫人も、どうぞ」
 夫人は頷いた後、息子を呼んだ。
 ハロルドは一歩、母へ近づきかけた。けれどミレイユが立ち去ろうとするのを見て、また足を止める。
 ミレイユは、もう彼の返事を待たなかった。
 広場へ向き直ったとき、黒い上着の人が、人垣の間をこちらへ歩いてきた。
 肩越しに家令へ一言告げ、オーウェンが顔を上げる。
 ミレイユを見つけると、歩幅が大きくなった。
 彼女も、彼に向かって歩きだした。
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