「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第14話 待たない人の、選んだ先



「よく来たね」
 オーウェンは、ミレイユのすぐ前で足を止めた。
 よく知っている声に、胸のつかえが少し下りる。
「今朝から、ずっと来ていたわ」
「遠くから見ただけでは、足りない」
 彼は彼女の顔を見て、目を細めた。
「その色、日に当たると、いっそういいね」
 淡い緑のドレスを選んだ日は、室内だった。今日は銀糸の飾りが、動くたびに光を拾う。
 ミレイユは、彼の褒め言葉にすぐ返したかったのに、少し間が空いた。
 オーウェンの目が、彼女の後ろへ向いた。
「何かあった?」
「ハロルド様とお話をしたの。今日、一緒に過ごしてほしいと」
 彼の表情から、柔らかさが消えた。
「断ったわ。侯爵夫人にも、ご挨拶をしてきたところ」
「分かった」
 オーウェンは、そこでは何も尋ねなかった。
 手を差し出す。
「では、君の恋人を、今日の席まで送ってくれないか」
「わたくしが?」
「橋の上なら迷わない。広場では、君のほうが先にいい店を見つけそうだ」
 笑ってしまった。
 彼の腕に手を添えると、今、触れたところから力が抜けていく。彼に何かを代わりに言ってもらわなければ歩けないわけではない。それでも、隣に来てくれて嬉しかった。
「青い風車の店を見つけたの。あとで買いたいわ」
「船の次は風車か」
「置く場所なら、少しでしょう」
「もう俺の家に置くつもりだね」
 ミレイユは頷きかけ、彼を見上げた。
 オーウェンは、彼女の返事を楽しそうに待っている。
「……置いてはいけない?」
「もっと増やしていい」
 耳が熱くなった。
 彼は、それを見て満足した顔になった。

 開会の挨拶は、長くはなかった。
 行事委員が橋の完成に礼を述べ、工事に携わった人々を紹介する。オーウェンは、雨が続いた間に渡船を出した船頭たちにも触れ、今日のために無理をさせずに済んだことを喜んだ。
 壇上で話す声は、広場の端までよく届いた。
 ミレイユは、日傘を畳み、その声を聞いた。
 彼と出かけることが増えてから、初めて知ることが幾つもあった。大勢の前で話すときには、言葉を少しゆっくり選ぶこと。人の名を呼ぶ前には、その本人を探すこと。仕事の話に感心していたら、後でそれを褒められたくて、彼のほうから隣へ来ること。
 今日は、何を褒めてあげよう。
 そんなことを考えていると、壇上の彼がこちらを見た。
 まるで考えていたことを知られたようで、ミレイユは姿勢を正した。
 式が終わると、祝賀の馬車へ乗る人々が呼ばれた。
 新しい橋をゆっくり渡り、向こう岸の広場まで進む。先頭の馬車には行事委員長夫妻が乗り、次にオーウェンたちが続く。その後ろには、周辺の町から来た招待客が乗ることになっていた。
 ミレイユは母に声をかけ、乗り場へ向かった。
「少し、待ってくれ」
 背後で、ハロルドの声がした。
 オーウェンが彼女の横へ戻ってくるのと、ほとんど同時だった。
 ミレイユは歩みを止めた。
 来賓席の人々が、次々に広場へ出てきている。ハロルドは、その流れを縫うように近づいてきた。先ほどより顔色が悪い。
「ミレイユ。君は、本当に公爵と乗るつもりなのか」
「そのお約束です」
「母に話してくれたことは、分かった。母も、君を困らせるなと言っている」
 それでも、と彼は続けた。
「せめて、橋を渡る間だけでも、僕と一緒にいてくれないか」
 彼の声に気づき、そばにいた紳士が振り向いた。
 ハロルドはそれを見たのか、一層声を落とす。
「ほんの短い時間だ。君も、そこまで僕を……」
「ハロルド様」
 ミレイユは、彼の言葉が続く前に呼んだ。
「先ほど、お断りしました。もうお話は変わりません」
 オーウェンは彼女の横で、相手を見ていた。
 ハロルドが、その顔へ視線を移す。
「公爵。少しだけ、ミレイユと話をさせていただけませんか」
「彼女に聞いてほしい」
「あなたは、昔からの友人だ。僕たちの間に積み重なったことも、ある程度はご存じでしょう」
「彼女が、君と話をしないと決めたことは聞いた」
 ハロルドの顎が、わずかに持ち上がった。
「僕は、あなたに彼女の返事を決めてほしいと言っているわけでは」
「わたくしが決めました」
 ミレイユが言うと、彼は彼女へ向き直った。
 途方に暮れたような目だった。
「分かっている。だが、急に何もかも、そんなふうに線を引かなくてもいいだろう。君は、僕がこういう場でどう見られるか、いつも考えてくれた」
 彼女は、それを考えていた。
 まだ彼の婚約者だった頃、初めて侯爵の代わりに客を迎えるという彼の話を聞き、当日、誰に何を尋ねれば話しやすいか、一緒に考えたこともある。
 その日は、彼が無事に挨拶を済ませた後、二人で笑った。
 あのとき嬉しかった気持ちまで、嘘にするつもりはなかった。
「はい。そうしていました」
「なら、今も少しは」
「その役目を、もう終えたのです」
 ハロルドの口元が歪んだ。
 彼は、彼女の隣に立つ男を見た。
「君は、僕に腹を立てて、公爵のところへ行ったんじゃないのか」
「違います」
「僕がモードを優先したから、自分にも幼なじみがいると、そう言いたかったんだろう。僕も、君がいなくなるかもしれないと思えば、少しは分かると」
 人の足音が、近くで止まった。
 ハロルドの友人だった。彼は何かを言いかけ、二人の間の空気を見て黙る。後ろから来た婦人が、その紳士を避けて乗り場へ歩いていった。
「わたくし、ハロルド様に何かを分からせるために、オーウェンと会っているのではありません」
 ミレイユは、オーウェンの腕へ置いた手に、少しだけ力を込めた。
「好きな人と、一緒にいたいのです。これからの暮らしも、この人と考えています」
 ハロルドの目が見開かれた。
「暮らし?」
 彼はオーウェンを見て、ミレイユへ目を戻した。
「結婚するつもりなのか」
「そうなれたらと、わたくしは望んでいます」
 正式な求婚は、まだだった。
 それでも、そう答えたかった。彼がどんな顔をするかより、今、隣にいる人へ自分の望みを聞かせたかった。
 オーウェンの指が、彼女の手に重なった。
「俺も、彼女と結婚したいと思っている」
 ミレイユは、彼を見上げた。
 広場の声が、一瞬だけ遠くなる。
 オーウェンはミレイユだけを見て、付け加えた。
「詳しい話をする場所は、あとで作りたいけれど」
「ええ」
 笑いそうになった。泣きそうでもあった。
 ハロルドが、一歩前へ出た。
「待ってくれ。そんなに早く決めることじゃない。君は僕と二年も婚約していたんだ」
 声が大きくなった。
「僕は先に、君と結婚するはずだった」
 今度は、近くにいた人々がはっきりと振り向いた。
 ミレイユは、彼の目を見て答えた。
「その婚約を、終えました」
 彼が何かを言おうとする。
「君は……」
 口から出たのは、それだけだった。
 係の男が、遠慮がちに近づいてきた。
「チェスター公爵、ロックウッド伯爵令嬢。お支度が整いました」
 ハロルドは男を見た。
 男が呼んだ二人の名前を聞き直すように、またミレイユの顔を見る。
 彼女は係へ頷いた。
「ありがとうございます。参ります」
 先に腕を動かしたのは、ミレイユだった。
 オーウェンと並んで乗り場へ進み、馬車の踏み台の前に立つ。御者が扉を押さえた。オーウェンはミレイユを乗せるため、彼女に手を差し出した。
 そこへ、再び名が飛んできた。
「ミレイユ!」
 ハロルドが追ってきた。
 ほんの数歩の距離なのに、息が上がっている。彼は馬車と彼女の間に入ろうとしたが、係の男が進み出た。
「お乗りになる方の通路です。お足元にお気をつけください」
 ハロルドは男を睨むように見てから、ミレイユへ手を伸ばした。
「今度は僕が、君を優先すると言っているんだ」
 ミレイユの背後で、オーウェンの足が一歩動いた。
 彼女は、その前に答えた。
「わたくしは、あなたの順番を待っていません」
 差し出された手は、取らなかった。
 オーウェンの手を取り、踏み台へ足をかける。裾を引っかけないように確かめて、座席へ腰を下ろした。
 オーウェンも続き、彼女の隣に座った。
 下から見上げるハロルドの顔が、青ざめていた。
「ミレイユ、僕は……」
 彼女はもう、その先を待たなかった。
 御者に顔を向ける。
「お待たせしました。お願いいたします」
 扉が閉まった。
 係が道を空ける。前の馬車が動きだすのを見て、こちらの馬もゆっくりと歩き始めた。
 ハロルドは、閉じた扉のそばから離れなければならなかった。
 彼が下がったところへ、人の輪の端からモードが近づいてきた。
「ハロルド」
 その声は、ミレイユの座った場所にも届いた。
「皆が見ているわ。わたくしと向こうへ行きましょう。あなたがそんなふうに言われることはないのよ」
 ハロルドは、彼女を見なかった。
 馬車の車輪がひとつ回る。
「ハロルド、お願い。わたくしを、こんなところで一人にしないで」
 モードが彼の袖へ触れた。
 彼は、その手を外した。
「一人にはならない。君の母上が、向こうにいる」
「そういうことではないでしょう。あなたはいつも、わたくしを」
「今日は行かない。これからも、君に呼ばれたというだけで、誰かとの約束を取りやめることはしない」
「では、今までのことは、わたくしが悪かったとおっしゃるの?」
「断らなかったのは僕だ」
 モードの口が開いた。
 もう一度彼の袖をつかもうとして、届く前に手を引いた。ハロルドは自分で乱れた袖口を戻し、遠ざかる馬車を見ていた。
 周囲にいた人々が、二人から目を逸らした。ハロルドの友人が近づき、彼の肩に手を置いたが、彼はそれにも応じなかった。
 ミレイユは、前を向いた。
 呼べば来てくれるはずの幼なじみは、モードの手を離したままだった。ハロルドが今さら誰かを断っても、彼の隣へ戻ろうという気持ちは湧かなかった。
 馬車は、人々の拍手の間を進んでいった。

「ミレイユ」
 橋へ上がる前に、オーウェンが呼んだ。
「手を、少し緩めてくれないか」
 ミレイユは、自分が彼の手を握り締めているのを知った。
「痛かった?」
「少し。手を離してほしいわけじゃない」
「ごめんなさい」
 指を緩めると、彼が握り直した。
 ミレイユは、ようやく息を深く吸った。
 彼の声が大きくなったとき、体が硬くなった。周囲の人の顔も、気になった。言い終えた後で、もっとよい言い方があったかもしれないと思いかけた。
 けれど、戻って言い直したいとは思わなかった。
「わたくし、ちゃんと乗れたわね」
「見ていた」
「あなたが手を出してくれたところへ」
「ああ」
 オーウェンは、握った手を自分の膝へ置いた。
「よく来てくれた」
 朝と同じ言葉だった。
 今度は、笑うより先に涙が出そうになった。
 ミレイユは、握った指に額を少し近づけ、顔を上げた。
 橋の上からは、岸の屋台も、旗を振る子供たちもよく見えた。風が帽子のつばを押したが、飛びそうにはならない。
 思っていたとおりの、気持ちのよい日だった。
「オーウェン」
「うん」
「今日のあなたは、とても素敵よ」
 彼が、驚いたように顔を向けた。
「今、言ってくれるのか」
「先ほどの挨拶も、よかったわ。あなたが船頭の方たちを呼んだとき、皆様、嬉しそうだった」
「そちらの話か」
「それも。服も似合っているし、迎えに来たとき、嬉しかった」
 彼の表情が変わるのを見て、ミレイユは楽しくなった。
「まだ、言おうかしら」
「帰るまで取っておいてくれ。今、君を抱き寄せると、旗を振っている子供たちまで覚えてしまう」
 笑い声が出た。
 オーウェンも笑い、彼女の手を一度だけ強く握った。

 向こう岸の広場へ着くと、焼き菓子と冷たい果実水が用意されていた。
 オーウェンは何人かの客に挨拶をし、そのたび、ミレイユを隣に置いた。彼女も紹介されるだけで済ませず、以前話した工事責任者の妻を見つけると、自分から声をかけた。
「今日は、少し休めますか」
「ようやくね。うちの人が橋の板ばかり見ていますから、食べ物のほうへ連れていきます」
「公爵様も、あちらを何度も見ていらっしゃるわ」
 言われて横を見ると、オーウェンが橋の入口に目を向けていた。
「癖になっているだけだ」
「今日は、船頭の方も職人の方も見ていらっしゃるのでしょう。あなたも、少しお休みになって」
「君がそう言うなら」
 彼は、真面目な顔で彼女の手を取った。
「休むから、付き合ってほしい」
 川魚の揚げ物を売る店へ向かう途中、こちらの広場にも、青い風車を並べた屋台が見えた。ミレイユは彼の手を引いた。
「先に風車を買うわ。売り切れたら困るもの」
「食事の前に?」
「ほんの少し、待ってくださる?」
 言ってから、二人とも顔を見合わせた。
 オーウェンが、わざと考え込む。
「俺も一緒に選ぶなら、待たなくて済む」
「青いものがいいの。譲らないわよ」
「では俺は、隣へ置くものを選ぼう」
 彼に手を引かれ、ミレイユは人々の間へ入っていった。
 昼にはまだ、たくさんの店が開いていた。
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