「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第15話 幼なじみと結婚します
五月に入ると、王都の庭は急に葉を増やした。
チェスター邸の裏庭でも、冬の間は向こうまで見えていた木立が、濃い緑の壁になりかけている。
先日頼んだとおり、彼の普段の時間を少し見せてもらう日だった。朝の用件が終わるまで大叔母と話し、それから、仕事を一段落させたオーウェンに庭に面した部屋へ案内してもらった。
ミレイユは、小さな部屋の窓から、その庭を眺めていた。
「ここは、夏には暑くなる?」
「午後は。午前の風は、よく入る」
オーウェンが、窓を少し開いた。
白い薄布が膨らみ、彼の袖へ触れる。
この部屋は、今はほとんど使われていないという。以前は彼の母が手紙を書いていたが、家具を移してからは、花瓶と数冊の本だけが残っていた。
ミレイユが、静かなところで彼の持っている旅行記を読みたいと言ったら、ここへ連れてこられた。
机の上に、頼んだ本が置いてある。
その隣に、折り畳まれた家具の絵があった。
「こちらは?」
「別邸の椅子を直すついでに、何点か見せてもらっている。気になる?」
ミレイユは、椅子の背に彫られた細かな花を見た。
「綺麗ね。でも、背中が痛くなりそう」
「家令も、同じことを言っていた」
「だったら、どうしてこちらを?」
「大叔母が好きなんだ。この椅子に座る日は、きっと長居をしない」
「あら。では、わたくしが好きな椅子は選ばないほうがよいかしら」
「君には、一番座りやすいものを用意する」
即答されて、彼女は絵から顔を上げた。
オーウェンが笑っている。
川開きの日に、結婚したいと互いに口にしてから、何かの拍子に、未来の話が混じるようになった。どう受け取ればよいのか分からない言葉ではなく、続きを考えてよい言葉だと分かっていた。
だから、ミレイユも続けた。
「わたくしの椅子だけ、よくなっても困るわ。二人とも、長く座っていられるものがいい」
「並んで座る?」
「本を読むなら、少し離れたいの。あなたは、読みかけのところを尋ねるでしょう」
「俺が話しかけるのが悪いように言うけれど、君も顔に出ているよ」
「何が?」
「こちらを見ろ、と」
ミレイユは反論しようとして、できなかった。
彼がずっと本を見ていたら、自分は退屈するのだろうか。
少し、しそうだった。
「では、机を挟んで座るのはどうかしら。顔が見えるように」
「いい案だ」
「でも、お仕事をする部屋とは別にしてね。わたくしが退屈したからといって、毎回あなたに話しかけていたら、皆様がお困りになるもの」
オーウェンは、窓枠に寄りかかって彼女を見た。
「君の部屋も、きちんと用意したい。人を呼ぶのに使う部屋と、好きに過ごす部屋と」
「人を呼ぶ部屋は、二人の部屋では駄目?」
「もちろん、いい」
「お客様のお相手を、ずっとわたくしだけでするのかと思ったわ」
「そんなつもりはなかった。そう聞こえたなら、すまない」
彼は、窓から手を離した。
「君一人で会いたい友人もいるだろうし、一人で本を読みたい日もあるだろうと思った。俺も、そういう時間が要る」
「わたくしも」
ミレイユは、今度は素直に頷いた。
「それなら、欲しいわ。あなたを追い出さなくても、一人になれる部屋」
「追い出すつもりだったのか」
「追い出されないためにも、必要かしらと思って」
オーウェンが声を立てて笑った。
彼女も笑い、旅行記を抱き上げた。
「公爵夫人のお部屋は、皆様がもう決めていらっしゃるものだと思っていたの」
「大きい部屋はある。でも、使ってみて嫌なら変えていい。少なくとも、隣が俺の部屋だという理由だけで、君をそこに置きたくはない」
「そこは、よい理由だわ」
言うと、彼が黙った。
ミレイユは、少しだけ勇気を出して続ける。
「隣がよいとは思っているの。あなたに会いたいとき、遠くまで行くのは嫌だもの」
「ミレイユ」
彼が一歩近づく。
開いた窓から風が入り、本の間に挟まれていた薄紙が床へ落ちた。
二人は同時に身をかがめ、指をぶつけた。
ミレイユが先に紙を拾うと、オーウェンが残念そうに息を吐く。
「何か、言おうとなさった?」
「せっかく、いいところだった」
「わたくしの勝ちね」
「何の勝負か、先に知らせてほしい」
彼女が紙を返そうとすると、紙ごと手を取られた。
今度は、指が触れるだけでは済まなかった。
引き寄せられて、彼の上着に本の角が当たる。
「本が傷むわ」
「そうだね」
オーウェンは、彼女の腕から本を取り、机へ置いた。
それから、空いた彼女の両手を自分のほうへ引いた。
「これなら?」
ミレイユは、返事の代わりに彼の頬へ触れた。
口づけを受ける前に、自分から少し背伸びをする。
彼の腕が背中に回った。
この部屋にも、座りやすい椅子があればよいのに、と、抱き寄せられながら思った。
その二日後、オーウェンはロックウッド伯爵邸を訪ねてきた。
父と話す約束があるとは聞いていた。ミレイユは朝から、父がどの居間へ彼を案内するのかを気にしてしまい、母に笑われた。
「お父様と話すのは、初めてではないでしょう」
「それは、そうですけれど」
「あなたが廊下を歩いても、お話の終わる時刻は変わらないわよ」
ミレイユは、手にしていた布を見た。
針は、一度も動いていなかった。
母が、その布の端を軽く引く。
「結婚は、あなたがしたいと思った方とするものです。お父様も、それは承知なさっているわ」
「反対される心配をしているのではないの」
「では?」
言葉にしようとすると、急に照れくさくなった。
「早く、わたくしにも会いに来てくださればよいと思って」
母は目を丸くした後、口元を押さえた。
「それは、お父様にも気の毒ね」
「お母様」
「ええ。もう言わないわ」
言わないと言いながら、まだ笑っている。
ミレイユは諦め、ようやく針を動かした。
小さな葉を二枚縫い終えた頃、扉が開いた。
父とオーウェンが入ってくる。
彼の顔を見ると、立ち上がりかけて、膝から布を落としそうになった。
母がそっと受け止める。
「今度は、わたくしたちがお邪魔ね」
「いや、まだ一言」
父が、ミレイユへ近づいた。
いつもより少し改まった顔だった。
「オーウェン殿から、あなたとの結婚を望んでいると、お話があった」
ミレイユは頷いた。
横に立つ彼を見たいのに、今は父を見ていたかった。
「あなたの答えは、あなたから伝えなさい。私たちは、二人で決めたことを聞きたい」
「はい」
父の声が、少しだけ柔らかくなる。
「ただし、二人とも、夕食はここで食べていくように。答えを聞くために、一晩待たせないでくれ」
ミレイユは、息を漏らして笑った。
オーウェンも笑い、礼を述べた。
父が母へ腕を貸し、二人は廊下へ出ていった。
扉は、少し開いたままになった。
広い応接室へ移るのかと思っていたが、オーウェンは動かなかった。
家族が朝食の後に使う、小さな居間だった。丸い卓の端には、母の読みかけの本と、ミレイユが使っていた糸籠がある。窓の下の長椅子には、父がよく膝へかけている布が畳まれていた。
「ここで、いい?」
彼に尋ねられ、ミレイユは頷いた。
「ええ」
「よかった。君は、ここにいるとき、ずいぶん気が強いから」
「いつもではないように、言わないで」
笑わせようとしたのだと分かった。
それでも、彼の指が上着の内側へ入ると、笑ってはいられなくなった。
オーウェンは小さな箱を取り出し、自分の掌へ載せた。
すぐには開かなかった。
「川開きの日に、先に言ってしまったけれど」
「わたくしも、言ったわ」
「聞いた。あれから何度も思い出している」
彼が、珍しく視線を落とした。
「君と暮らすことを望んでいいのだと、はっきり分かったから」
ミレイユは、彼の持つ箱へ目を落とした。
その箱を、どこで選んだのだろう。どんな顔で指輪を見て、いつ渡そうと考えていたのだろう。
今まで知らなかった彼の時間が、この小さなものの向こうにある。
「オーウェンは、どんなふうに暮らしたい?」
彼は顔を上げた。
ミレイユの胸が、強く鳴った。
「わたくしに合わせたお話ではなくて。あなたが、したいことを聞かせて」
オーウェンは、少し考えた。
「まず、帰る家に、君がいてほしい」
彼女は頷き、続きを待った。
「毎日、同じ時刻に帰れるとは言えない。王都と領地を行き来するし、忙しい日は、夕食まで顔を合わせられないかもしれない。それでも、顔を見て話せる家へ帰りたい」
「何を話すの?」
「君がその日にしたことを聞きたい。俺の知らないところで笑ったなら、何がおかしかったのか知りたい。俺のほうに腹の立つことがあった日は、聞いてもらいたい」
彼の口元が、少し緩んだ。
「君は、俺が怒っているのに、いきなり別のところで笑うだろう。こちらも、つられてしまう」
「いつも、わざとしているのではないわ」
「知っている。だから、好きなんだ」
ミレイユは、黙った。
顔の熱さを隠すには、近すぎた。
「静かな日も欲しい。仕事のない朝に、君と二人で、遅い食事をしたい。急に出かけることになったら、一緒に来てほしい日もある。君が行きたくないと言ったら、早く帰ってきたい」
「早く帰れない日も、あるでしょう」
「ある。その日は、次に出かける場所を考える」
彼は笑い、それから真面目な目になった。
「君に触れたい。さっきまで一緒にいたのに、離れたら会いたくなったと、遠慮なく言いたい。家令に次の訪問日を尋ねる代わりに、隣の部屋へ迎えに行きたい」
彼女は、彼の上着の袖へ触れた。
「わたくしも、隣のお部屋がいいわ」
「では、それは決まりだ」
オーウェンの指が、箱の蓋を開いた。
澄んだ青い石が、光を受けていた。周りの金は細く、脇に小さな透明な石が二つ並んでいる。
「立派な品を、幾つも見せてもらった。けれど、君の手にあるところを思い浮かべたら、これが欲しくなった」
「わたくしの指輪を、あなたが欲しくなったの?」
「うん。君に渡して、着けた手を取りたいと思った」
目を上げると、彼も彼女を見ていた。
「ミレイユ。俺と、結婚してほしい」
彼が、片膝をついた。
胸がいっぱいになった。
目の前の男を、こんなに好きになるとは思っていなかった。長く知っている相手を見直しただけでは、説明できない。今も、彼が何を言い、どこで笑うかを知るたびに、また会いたくなる。
ミレイユは彼の手へ、自分の左手を重ねた。
「はい。オーウェンと、結婚します」
声は、思ったよりしっかりと出た。
「わたくしも、帰ってきたあなたの顔を見たい。お仕事のお話も聞きたいし、わたくしが何をしていたかも、聞いてほしい」
彼が、彼女の指を撫でた。
「それから、わたくしが出かけて帰った日も、あなたに会いたいわ。お迎えに来てくださる日があっても、嬉しい」
「必ず、迎えに行く日を作る」
「わたくしが一人で帰れることは、知っていてね」
「知っている。それでも、君が乗っている馬車が見えたら、嬉しいと思う」
ミレイユは笑った。
笑った拍子に、目の端へ溜まっていたものがこぼれた。
オーウェンが、箱を卓へ置き、もう片方の手で彼女の頬へ触れる。
「泣かせたかったわけじゃない」
「分かっているわ。わたくしも、泣く予定ではなかったの」
自分で頬を拭い、左手を差し出すと、彼の顔にも笑みが戻った。
指輪は、少しゆっくりと薬指を通った。
付け根に収まると、青い石が指の動きに合わせて光る。
オーウェンが、その手を持ち上げた。
石のすぐそばへ唇が触れた。
ミレイユは、彼が顔を上げるのを待ち、両手を彼の肩へ置いた。
「立って。あなたに、キスをしたいの」
彼は、笑いながら立ち上がった。
口づけをしたのは、彼女からだった。
父と母を呼びに行くまでに、思ったより時間がかかった。
父は時計を見てから、二人を見た。
「夕食までには、間に合ったな」
「お父様」
母の視線は、ミレイユの左手へ真っ直ぐに向かった。
「見せて」
手を差し出すと、母は指輪を見て、それから彼女の顔を見た。
「よく似合っているわ」
オーウェンが、母にも礼を述べた。
父は少し離れたところで、何度も頷いていた。
夕食では、婚礼の時季の話になった。
早く一緒に暮らしたいとオーウェンが言うので、ミレイユはスプーンを置いて彼を見た。
「支度にも、お時間が要るわ」
「それは分かっている」
「分かっていらっしゃるお顔ではないのだけれど」
父が咳払いをし、母が俯いた。
オーウェンは二人を見てから、ミレイユに顔を向ける。
「九月は、どうだろう」
彼女は、秋の別邸を思い浮かべた。
今とは違う色の川辺を、彼と歩ける。夏の間には、ドレスを選び、招待する人を考える時間もある。
「九月がいいわ」
「では、九月に」
父が杯を持ち上げた。
「二人に、よい秋が来るように」
ミレイユも杯を取った。
オーウェンと目を合わせると、彼が何か言いたそうに眉を上げる。
待って、と目で返した。
まずは父の乾杯を聞くべきだった。
彼が帰るとき、ミレイユは玄関まで見送りに出た。
すでに馬車は待っていたが、オーウェンはなかなか手を離さなかった。
「明日、顔を見に来てもいい?」
「明日は、お仕事があるでしょう」
「終えたら」
「わたくしも、お母様と出かけるの。夜には戻るわ」
「では、夜に」
彼女は笑った。
「同じことを言っているのではない?」
「来ていいと、まだ聞いていない」
ミレイユは、彼の手を両手で包んだ。
「来て。わたくしも、会いたい」
彼は、満足そうに頷いた。
けれど、まだ動かない。
「オーウェン。明日また会うのよ」
「分かっている」
彼女が一歩近づくと、彼はすぐに身をかがめた。
唇を触れ合わせ、今度こそ手を離す。
馬車へ乗る彼を見送りながら、ミレイユは左手の指輪へ触れた。
門を出る直前、窓から彼の手が上がった。
彼女も手を振る。
玄関の扉を閉じる前に、明日の服を考え始めていた。