「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第16話 花嫁の知らなかった幼なじみ
八月の終わり、ミレイユはチェスター家の大広間で、椅子に座ったまま指を二本立てた。
「二皿です」
長い食卓の向こうで、オーウェンが料理人を見た。
「菓子を二皿にすると?」
「魚を小さくお出しできます」
「小さくしなくていいわ。わたくしは魚も食べたいの」
料理人が口元を緩めた。二人の前には婚礼の祝宴に出す料理が少量ずつ並び、その最後に、二種類の菓子が置かれていた。焼いた果実の菓子と、冷たくした乳菓子。どちらかを選ぶはずが、ミレイユはどちらも好きだった。
「両方に決めよう」
「あなた、さっきからわたくしの味方をしすぎよ」
「片方を選んだあとで、君が俺の皿を見るだろう」
「見るだけかもしれません」
「君の見るだけは、俺の返事を待っている」
料理人がついに笑った。ミレイユも笑いながら、小皿に残った乳菓子を匙ですくった。
大きな祝宴を望んだのは二人だった。親しかった人々も、領の仕事を支える人々も、両親の友人も招きたかった。招待客の多い婚礼なら花嫁の好きにはできない、と身構えた時期もあったが、人数が増えれば選ぶ楽しみも増えた。
もちろん、すべての好みが揃うわけではない。
広間に掛ける布は、ミレイユが選んだ薄い青では壁に沈んだ。オーウェンの選んだ濃い緑は、昼間でも重く見えた。結局、二人で実物を窓際に持っていき、青に近い緑の布に決めた。
彼女が五曲目に希望した速い舞曲には、彼が難しい顔をした。
「嫌いなの?」
「君と踊るのは好きだ。だが伯父たちがついてこられない」
「伯父様たちは休んでくださればいいのよ。あの曲、あなたと踊りたいわ」
「……それなら、早い時間に入れよう」
今もその曲を思い出したらしいオーウェンが、卓上の献立案に指を置いた。
「この食事のあとで、あの速さは厳しい」
「では、あなたの菓子はわたくしが」
「それはもっと厳しい」
料理人を送り出してから、ミレイユは椅子を少し引いた。立とうとした彼女の前に、彼の手が差し出される。
「少し、踊っていきません?」
「ここで?」
「広間ですもの」
食卓の脇には十分な空間があった。彼の手を取って立ち、彼女は自分で拍子を数えた。最初の一歩から彼の足取りはよく合った。くるりと回ったところで裾が椅子に触れ、二人は同時に止まった。
「椅子のせいね」
「ああ。間違いなく」
「笑っていらっしゃるわ」
「椅子に言い訳する花嫁を、初めて見た」
「慣れていただかなければ」
彼の肩が揺れた。ミレイユはその肩に置いた手に、少し力を込めた。礼服のない午後、親戚も楽団もいない広間で踊るほうが、かえって彼に近くなれる気がした。
彼は一度だけ、彼女の手の甲に口づけた。
「慣れる時間は、たくさんある」
返事の代わりに、彼女はもう一度最初の拍子を取った。
婚礼の三日前、ロックウッド伯爵は娘を書斎へ呼んだ。
ミレイユが入ると、父は机の脇に置いた小箱を、まだ開けずに眺めていた。彼女の幼い頃からこの部屋にある、角の擦れた箱だった。
「持っていくか」
蓋の下には、父から預かった小さな鍵や、古い押し花、幼い彼女が字の練習に使った紙があった。ミレイユは赤い顔になった。
「お父様。それは処分なさっても」
「君が置いていったから保管していた。勝手には捨てられない」
「では、その紙だけは」
伸ばした指より早く、父が一枚を取り上げた。
大きく曲がった字で、隣の家へ行ってきます、と書いてある。幼い頃、出かけるたびに父へ告げるのが面倒で、先に書いておこうとしたものだった。
「帰りは夕食まで、とも書いてある」
「それで帰ってこなかった日のお説教は、覚えております」
「帰ってきた。オーウェンと一緒に。二人とも泥だらけでね」
父は紙を彼女へ渡した。笑ってはいたが、指を放すのが少し遅かった。
ミレイユはそれを受け取り、膝の上で折り目をなぞった。
「今度は、夕食もあちらでいただきますわ」
「そうだな」
「こちらへ遊びに来る日は、帰る時間をお伝えいたします」
「泊まっていけばいい」
即答した父を見て、ミレイユは笑った。父も自分の声の速さに気づいたらしく、短く咳払いした。
「もちろん、二人でだ」
「ええ。二人で」
窓の外から母の声が聞こえた。荷造りをしていた侍女に、持たせる本を追加している。ミレイユは箱から押し花を一枚だけ選び、練習の紙と重ねた。
「こちらは、お父様がお持ちになって。この家にあったからと、何でも持っていかなくてもいいと思うの」
父は空きの増えた箱を閉じた。
「分かった。そうしよう」
別れの挨拶をするつもりで来たわけではなかった。それでも席を立つ前に、彼女は父の隣へ回り、肩に腕を添えた。
「わたくし、楽しみにしております」
父の手が、娘の手を一度たたいた。
「知っている。最近の君は、よく笑う」
九月の婚礼の日は、朝からよく晴れた。
髪を結い終わったドリスが、最後の留め具を確かめた。ミレイユは鏡の中で、白い衣装の胸元を見た。夏に何度も袖を通したはずなのに、今日はずっと明るく見えた。
「裾は、歩いても大丈夫でしょうか」
「先ほど三度お歩きになりましたよ」
「もう一度」
「では、わたくしは四度目に備えます」
ドリスが裾を持ち上げた。ミレイユは笑って立ち、窓際まで往復した。
母が入ってきたのは、四度目の歩き方を確認し終えたところだった。娘を見ると、母は何か言おうとして、やめた。代わりに彼女の耳飾りに手を伸ばし、左右の高さを確かめる。
「まっすぐでしょう?」
「ええ。触りたかっただけ」
ミレイユの喉が少し詰まった。母が彼女を抱き寄せる前に、彼女のほうから腕を回した。母の衣装に皺を寄せないようにと思ったのに、結局、しっかりとしがみついてしまった。
「お化粧が崩れるわ」
「お母様がおっしゃると、説得力がありません」
母の声も濡れていた。
扉の向こうから父がそっと時間を告げ、二人は顔を離した。ドリスが何も言わずに布を差し出す。ミレイユは目元を押さえて、鏡をもう一度だけ見た。
礼拝堂へ続く廊下には、秋の花が飾られていた。招待客の声は遠く、父の靴音だけが彼女の隣で響く。
「ゆっくりでよい」
「お父様の歩幅に合わせておりますわ」
「そうか」
父の歩みがほんの少しだけ速くなった。ミレイユは笑いを堪えきれず、腕を組んだまま顔を伏せた。
扉が開いた。
奥にオーウェンがいた。礼服の肩が、いつもより遠く高く見えた。彼は近づいてくる彼女を見つめ、途中で一度息を吐いた。隣に立つ人から何か囁かれても、視線は動かなかった。
あんなふうに見られながら歩くとは思わなかった。
幼なじみの家へ遊びに行くときには、廊下の先から名前を呼べた。今日は、その名前を呼ぶまでに胸がいっぱいになった。
父から彼へ、手が渡った。
「よろしく頼む」
「はい」
オーウェンの返事は短かった。それから、彼女へだけ声を落とした。
「ミレイユ」
「はい」
「……今、何か言うと、式を止めそうだ」
彼女は唇を噛んだ。笑わないつもりだったのに、目まで笑ってしまう。
「あとで全部、聞かせてください」
「覚えておいてくれ」
儀式が始まった。
誓いの言葉を口にするとき、彼女は彼の指を見ていた。何度も触れて、口づけられ、いつの間にか自分から探すようになった手だった。今は、自分も同じように彼を支えたいと思った。
彼の手で、指輪が自分の指に収まる。彼女も彼へ指輪をはめた。手袋を外した彼の指には、薄い傷が一本あった。いつついたのか知らない。あとで尋ねようと思った。
顔を上げた彼女を見て、オーウェンが微笑んだ。
許された口づけは、唇へやわらかく触れるだけだった。それなのに離れた瞬間、彼女はもう一度と望んだ。礼拝堂の中でそんなことを思った自分がおかしくて、また笑ってしまう。
「何?」
小さく問う彼に、彼女は首を振った。
「あとで」
彼の目が、意味を察したように細くなった。
祝宴は、菓子を二種類出すという決定が正しかったと、誰もが認める賑やかさだった。
母に促されて客へ挨拶に行けば、オーウェンは別の客から呼ばれた。ずっと隣に立っていられるわけではなかったが、ふと見回すと彼もこちらを探していることがあった。
そのたび、彼女は少しだけ手を上げる。
彼も同じように上げかけて、公爵として会話中だったことに気づき、指先だけで応えた。ミレイユは笑いながら、客の話へ向き直った。
チェスター大叔母は二人の近くへ来るなり、花嫁を眺めて目を細めた。
「よくお似合いだこと。あの子が朝から何を言っていたか、聞かせたいくらい」
「大叔母上」
戻ってきたオーウェンが、珍しく早い声を出した。
「何をおっしゃったの?」
「伯爵家へ迎えに行って、そのまま連れてきたほうが」
「もう十分です」
ミレイユは彼の腕をつかんだ。
「どうして? まだ十分ではありませんわ」
「君には、あとで話す」
「それでは、わたくしはそのときまで楽しみにしております」
大叔母は満足そうに別の客へ向かった。ミレイユは彼の顔を覗き込み、彼が耳まで赤くなっていないことを少し残念に思った。かわりに、腕の下から伸びてきた手が彼女の指を探した。
速い舞曲が始まると、彼女はその手を引いた。
「約束の曲よ」
「分かっている」
「お菓子を二皿いただいたでしょう」
「君もね」
彼に腰を支えられ、彼女は明るい広間へ出た。夏の午後に椅子へぶつかっていた場所には、花を飾った柱があった。今度はそれを避けて、二人は大きく回った。
裾が弧を描く。彼の目から、笑みが消えない。
楽団の調子が上がると、彼女はわざと一歩大きく踏み出した。彼はすぐについてきた。声を出して笑うのは花嫁らしくないかもしれないと思ったが、彼も笑っているのでやめられなかった。
曲が終わったあと、彼女の呼吸が落ち着くまで、オーウェンは手を離さなかった。
「もう一曲?」
「少しだけ、待って」
「珍しい」
「あなたのせいよ」
彼が嬉しそうに笑ったので、彼女はその腕を軽くたたいた。
最後の客を見送った頃には、窓の外はすっかり暗かった。
ミレイユは王都のチェスター邸に用意された部屋で、髪から留め具を外してもらっていた。衣装を替え、鏡の前で肩の力を抜くと、今日一日が急に長く感じられた。
ドリスが片づけを終え、扉の外へ出る。
「お疲れなら、お早めにお休みくださいませ」
その言い方に、ミレイユは思わず鏡越しに侍女を見た。ドリスは至って真面目な顔で頭を下げ、部屋を出ていった。
ほどなく、控えめなノックがした。
「どうぞ」
入ってきたオーウェンは礼服を脱いでいた。襟元のやわらかい白いシャツが、彼女の知らない夜の彼に見えた。
「疲れた?」
「足が少し」
彼は長椅子の脇へ来て、膝をついた。ミレイユは慌てて彼の肩へ手を置いた。
「オーウェン、靴はもう脱いでおります」
「知っている。顔を見たいだけだ」
その高さでは、彼のほうが彼女を見上げることになる。ミレイユは、いつものように何か言い返そうとして、できなかった。指先で彼の髪に触れると、彼がその手を取った。
「きれいだった」
「さっきのお話、それ?」
「それもある」
彼女の指に、順に口づけが落ちた。最後に指輪の上へ触れた彼の唇を見て、彼女の胸が熱くなった。
「迎えに行きたくなったの?」
「行けば会えるだろう。別の家で、君も同じ日を待っている。それが妙に落ち着かなかった」
「わたくしは、あなたより先に出発の支度を済ませていたかもしれませんわ。四回も歩く練習をしたの」
「花嫁を待たせるところだった」
「それを聞いたら、お父様が歩く練習に付き合ったと思うわ」
彼が笑った。彼女は彼のシャツの袖に触れ、指にあった小さな傷を尋ねた。
「これは?」
「飾りを運ぼうとして、金具に引っかけた」
「あなたがお運びになったの?」
「邪魔になるから座っていてくれ、と家令に言われたよ」
ミレイユは笑い、彼の傷のすぐ脇に唇を触れさせた。
彼の指が止まった。
「それは、どういう意味?」
「今日のご苦労に」
「労いなら、そろそろ俺もしていいか」
彼が立ち上がり、彼女の隣へ座った。近すぎるほど近い肩に、彼女はためらわず体を寄せた。
「礼拝堂で言わなかったこと、もう一つあるの」
「聞きたい」
「もう一度、してほしかったわ」
彼女の頬へ手が触れた。親指が耳の下を撫で、そのまま唇が重なった。昼間の口づけより長く、深くなる。ミレイユは彼の胸元を握り、息をつぐために離れたあとも、そこから手を放さなかった。
「もう一度?」
彼の問い方が、少しずるかった。
ミレイユは返事をせず、今度は自分から彼へ近づいた。オーウェンの腕が背に回り、彼女を引き寄せる。今日一日、何人もの人へ向けていた彼の声が、すぐ耳元に落ちた。
「ミレイユ。今夜は、俺のそばにいて」
「そのつもりで、こちらへ嫁いだのよ」
言ってから照れた彼女を、彼は笑わなかった。抱く腕が強くなり、額が彼女の額に触れる。
ミレイユは彼の肩に腕を回した。扉の外で遠ざかる足音がし、やがて廊下も静かになった。
彼女が彼の名前を呼ぶと、返事は声より先に唇で届いた。