「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第3話 幼なじみからの申し込み
「二人で、食事?」
ミレイユが繰り返すと、オーウェンはうなずいた。
伯爵邸の庭では、ドリスが離れたところで茶器を整えている。先ほどまでの話も聞こえているはずなのに、侍女は見事なまでにこちらを見なかった。
「お父様は?」
「伯爵とは、また別の機会に食べる」
「お母様も?」
「そう何人も増やさないでくれ」
オーウェンは笑った。その目が自分に向いていることは、ミレイユにもよく分かった。
「一緒にいて、君が気を使うだけの食事にはしたくない。だが、幼なじみを励ましに行くつもりでもない」
「それでは、何のお食事なの」
「俺が、君を口説くための食事だ」
ミレイユは彼を見つめた。
花の名を訊いていたのと同じ声だった。そのくせ、言っていることは少しも同じではない。
「……あなたが?」
「ほかの男の席を用意するほど、お人好しではないな」
「わたくしを?」
「そうだ」
彼は返事のたびに彼女を見ていた。冗談だったと引き取ってくれそうな様子は、どこにもなかった。
「随分、急なお話ね」
「知らせを受ける前に誘うことはできなかった」
「そうだけれど」
「君と二人で出かけたい。君にも、俺を男として見てほしい。今は、それを申し込んでいる」
ミレイユは膝の上で指を動かした。
目の前の人は、幼い頃に泥のついた靴で一緒に叱られた相手だった。昔話なら、彼女も彼を困らせられる。公爵の立派な上着の下に、転んで膝を擦りむいた少年がいるような気がしていた。
だが、今のオーウェンは、困らされるのを待っていなかった。
彼の声に返事をするだけで、喉の奥が熱くなった。
「わたくし、あなたと食事をしたら、何か決めなければいけないの?」
「気に入らなければ、そう言えばいい」
「食事のこと?」
「俺のことを訊いたんじゃなかったのか」
今度はミレイユが返事に詰まった。
オーウェンは楽しそうだった。彼にこんなふうに見られるのは、どうも悔しい。
「食事で何を召し上がるかも、大切ですわ」
「確かに。それなら、店は君にも相談したい」
彼が少し調子を戻したので、ミレイユは息ができた。
昼に開いていて、広い窓があり、散歩をする通りにも近い店。二人で出した候補の中から一軒を選んだ。仕立屋の帰りに母と寄ったことはあるが、彼とは一緒に行ったことがない店だった。
「では、あさって。迎えに来る」
「ええ」
オーウェンは立ち上がり、伯爵夫人にも挨拶をして帰ると言った。急に改まったので、ミレイユもつられて立つ。
「お母様に、何をおっしゃるの」
「娘さんと食事に出かけます、と」
「口説くとまで、おっしゃらないでしょうね」
「君が秘密にしたいなら、言わない」
ミレイユは、秘密という言葉にまた困った。
「別に、秘密ではないけれど」
「では、隠す必要はないな」
彼は笑みを残して庭を出ていった。
見送ってから椅子へ戻ると、ドリスが冷めたお茶を取り替えに来た。ミレイユは新しい杯を受け取り、横目で侍女を見た。
「何か、聞こえた?」
「お食事のご相談が」
「それだけ?」
「ほかに何かございましたか」
ドリスの顔は真面目だった。
ミレイユは彼女の顔を見ていられず、お茶を飲んだ。
二日後、オーウェンの馬車が伯爵邸の前に止まったとき、ミレイユは二つの帽子を前に迷っていた。
最初に出したのは、落ち着いた灰青色の帽子だった。いつもの外出に使いやすく、どのドレスにも合う。
だが、鏡に映ると、どこか見慣れすぎていた。
もう一つは、淡い色のリボンをつけた新しい帽子だった。少し浮かれた感じがする。それをかぶって彼に会うのは、食事を楽しみにしていましたと先に言ってしまうようで、気恥ずかしかった。
「ドリス。こちらは、少し」
「春らしくて、お似合いでございます」
「わたくし、まだ何も言っていないわ」
「はい」
侍女は新しい帽子のリボンを整えた。
ミレイユは諦めて鏡を見た。思っていたより悪くない。口元までかたくする必要はないのだと思い、少しだけ笑ってみた。
階下では、オーウェンが父と話をしていた。
二人が並んでいると、彼が自分の知る人より少し年上の、大人の男性に見えた。いや、彼は前から三つ年上だった。今さら何を考えているのかと、ミレイユは階段の最後の段に気をつけた。
オーウェンが顔を上げた。
「待たせたわ」
「いや」
それだけ言って、彼は彼女を見た。
帽子のことだろうか。ドレスの色かもしれない。気になったが、父の前で訊くのは難しかった。
「では、楽しんでおいで」
父が言う。
母まで玄関に出てきて、ミレイユの肩の飾りを直した。
「帰りは急がなくていいけれど、冷えないうちにね」
「お母様までお見送りをするの?」
「ちょうど通り掛かっただけよ」
庭へ行く時とは反対の廊下から来たくせに、母は平然としていた。
馬車へ乗るとき、オーウェンは手を差し出した。ミレイユも手袋越しにその手を借りた。いつものことだったはずなのに、彼の指が自分の手を支える力を、今日ははっきり感じた。
馬車が動き出すと、向かい側に座った彼がもう一度こちらを見た。
「その帽子は、新しいな」
「ええ」
「よく似合っている」
ただそれだけで、二つ並べて迷った時間を知られたような気がした。
「春らしいと、ドリスにも言われたわ」
「そうか。俺も、言っておきたかった」
「褒めることまで予定に入っているの?」
「君が似合う物を選んできたら、当然言うだろう」
ミレイユは帽子のリボンへ触りかけ、やめた。彼がそれを見て笑ったからだ。
代わりに窓の外を指した。街路樹の根元には、小さな花が咲き始めている。彼もそちらへ目をやったが、話すたびに視線は彼女へ戻ってきた。
店では、庭に面した席が用意されていた。
明るい食堂で、近くには別の客もいた。ドリスは少し離れたテーブルで食事をすることになっている。二人だけの秘密の場所ではないのに、テーブルの向こうに彼だけが座ると、いつもの集まりとは違って見えた。
ミレイユは献立を開き、選ぶふりをして落ち着こうとした。
「何か、食べられない物はあったか」
「それをあなたに訊かれるなんて、妙な気持ちね」
「最近の好みまでは、全部は知らない」
「わたくしも、あなたが最近何を好きなのか、知らないわ」
「では、訊いてくれ」
ミレイユは献立から顔を上げた。
「甘い物は?」
「好きだ」
「前は、焼き菓子の砂糖を落としていたでしょう」
「あれは、落として君に食べさせていたんだ。俺が食べる前に寄こせと言うから」
「そんなに欲しがった覚えはありません」
「俺はある」
オーウェンが笑った。ミレイユは、彼の記憶違いを指摘しようとして、結局、自分も少し笑った。
「今日は、わたくしの皿から取らないでね」
「君が食べ切れないと言わないかぎりは」
二人はそれぞれ違う料理を選んだ。彼女が最後まで迷っていた一品を、オーウェンが頼む。
「そちらも気になっていたの」
「俺もだ。味が知りたければ、取り分けてもらおう」
給仕が下がると、ミレイユは椅子に座り直した。
彼に食べたい物を当ててもらうだけの食事ではなかった。オーウェンの好きな物が目の前に出てきて、それを自分が少し分けてもらう。そんな当たり前のことが、妙に楽しかった。
彼は最近、領地で橋の架け替えの話をしていると言った。細かな工事の説明を始めるつもりはないようで、川のこちら側の者と向こう側の者で、集まる場所を決めるだけでもひと騒ぎすると笑う。
「同じ川なのに、使いたい岸は違うのね」
「それぞれの台所に近い方がいいらしい」
「それは大切だわ。お父様も、庭の休憩所は台所の近くへとおっしゃるもの」
「伯爵らしいな」
「あなたは、どちらに座るの」
「今は、まだ橋の上には座れない」
「そういうことではなくて」
「分かっている。片方だけに通っていると、もう片方が来なくなる。次の集まりは向こう岸だ」
オーウェンは、運ばれてきた皿を見て話を止めた。料理の説明を聞き、彼女の方にも小皿を頼む。
ミレイユは、また川の話を聞きたかった。けれど、彼が一口食べて、予想より辛かったらしく眉を上げたので、まずそちらが気になった。
「大丈夫?」
「辛い」
「わたくしも少し」
「君はもっと驚くと思うが」
「あなたが食べられるなら、大丈夫よ」
給仕に取り分けてもらった一口を食べ、ミレイユはしばらく黙った。
オーウェンが水差しへ手を伸ばす。彼女の杯へ水が注がれたところで、二人の目が合った。
「どうだ」
「おいしいわ」
「顔が、まったくそう言っていない」
「おいしいけれど、次はもっと小さくしてもらいます」
彼は笑った。ミレイユも水を飲んでから、とうとう笑ってしまった。
こんな顔を見せる相手だと思っていた。気を張らずに済む、古い友達。
ところが、彼が笑うのを見ていると、もう一度その顔にしたくなった。自分の言葉で笑ってくれたのだと思うと、少し誇らしかった。
食後の菓子が運ばれる頃には、帽子を選んでいた時の緊張は薄れていた。
「あなたは、今も石を投げるのが上手?」
「水切りか」
「ええ。川のお話を聞いていたら、思い出したの」
「最近は試していない。君は?」
「わたくしも。でも、今度なら勝てるかもしれない」
「根拠は?」
「あなたが練習していないから」
「君もだろう」
ミレイユは匙を置き、わざと澄ました顔をした。
「大人になった分の工夫があります」
「それは楽しみだ」
彼が本当に楽しみにしている顔で言ったので、ミレイユは胸の内でつくった得意げな返事を忘れた。
食後は、店から続く広い通りを歩いた。
風はまだ少し冷たかった。ドリスが後ろから歩き、オーウェンは車道側に立っていた。
街角の古い玩具屋の前で、ミレイユは足を止めた。木の馬や人形の間に、小さな船が並んでいる。
「まだ、こんな物があるのね」
窓を覗くと、オーウェンも隣に来た。
「船は昔からあるだろう」
「大人になると、窓の前に立たなくなるのよ」
「入ってみるか」
「見るだけよ」
「そのつもりで入った店で、君が何も買わずに出た覚えはあまりない」
ミレイユは彼を見上げたが、否定できる証拠が見つからなかった。
店の中には木と塗料の匂いがした。店主が挨拶をし、子どもへの贈り物かと尋ねた。
「わたくしたちが見るのです」
答えると、店主は驚きもせず、船の棚へ案内してくれた。
青い帆の船、白い帆の船、赤い帆の船。大きな模型もあったが、ミレイユは両手に収まる赤い帆の一隻を選び上げた。
「こちらは、浮かべられますか」
「ええ。浅い池なら、よく走ります。風の強い日は、帆を小さく畳んでください」
店主が帆の糸を緩めると、小さな布がするりと下がった。ミレイユも真似をしてみたが、指先がうまく結び目に届かない。
オーウェンが横から船を支えた。
「ここだ」
「見えています」
「では、どうぞ」
待たれると余計に焦った。彼の指は船べりの向こうにあり、彼女の指が動くたびに近くなる。
やっと糸が動き、帆が半分まで下りた。
「できたわ」
「ああ。これなら、一人でも出帆できる」
「船長はわたくしよ」
「航海に付き添うつもりだったんだが」
「付き添うだけ?」
言ってから、ミレイユは顔を上げた。
オーウェンが彼女を見ていた。
「君が望むなら、一緒に乗る方がいい」
店主が、船の底を拭く布を持って戻ってきた。
ミレイユは急いで船へ目を戻した。乗れる大きさではない船の話をしているのに、なぜか耳が熱かった。
「これにします」
「どこへ浮かべるつもりだ」
「うちの庭は、池が小さいわ。あなたの川辺の別邸に、よい場所はない?」
「流れの弱い入り江がある。今の時期は冷たいが、もう少し暖かくなれば」
「では、そこへ置かせてもらってもいいかしら」
オーウェンは船へ目を落とした。
「俺にも、使わせてくれるなら」
「二人の船にするの?」
「ああ」
ミレイユは店主から告げられた代金を確かめ、半額を財布から出した。オーウェンも同じだけの硬貨を置く。
店主は二人の硬貨を一緒に受け取り、船を薄紙で包んでくれた。
「帆は、折り目がつかないように寝かせます。お屋敷で開けたら、立ててやってください」
「分かった。大切に運ぶ」
オーウェンが箱を受け取った。
ミレイユは空になった手を見て、それから彼の腕の中の箱を見た。どちらか一人の贈り物ではない物を、今日は二人で買った。
「春に、確かめに行くわ。きちんと立ててあるか」
「そのときは、伯爵と夫人もお招きしよう」
「水切りの勝負も?」
「君の工夫を聞かせてもらわないとな」
彼が歩き出したので、ミレイユも隣へ並んだ。
すぐに馬車へは戻らず、通りをもう少し先まで歩いた。途中で彼が、寒くないかと尋ねた。
「平気よ。もう少し歩きたいの」
「なら、向こうの広場まで行こう」
オーウェンは箱を持つ腕を替え、歩幅を少し緩めた。
彼女が同じ速さになったところで、彼はまた話を始めた。今度は夕食に何を食べたいかという話だった。昼食を食べ終わったばかりなのにとミレイユが笑うと、彼も笑った。
広場から戻る道を選んだのは、ミレイユだった。
「こちらの方が、少し遠回りなのだけれど」
「知っている」
「よろしい?」
オーウェンは彼女の顔を見た。
「俺は、その方がうれしい」
今度はミレイユも、先に目をそらさずに笑った。