「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第4話 公爵様の譲れないこと



 三月半ばの朝、ロックウッド家の馬車には、旅鞄のほかに母が用意した膝掛けが五枚積まれていた。
「三時間の道のりですわよ、お母様」
「ええ。寒がる人が三人いるでしょう」
「五枚あります」
「帰りに荷物が増えたら、壊れ物も包めます」
 父が自分の分を膝に掛け、もう一枚を腰の後ろへ押し込んだ。母はそれを見て、用意がよかったでしょうという顔をした。
 ミレイユは窓側に座った。王都を離れると道沿いの庭が畑へ変わり、枝の黒い果樹の向こうに低い丘が見え始める。チェスター領へ行くのは、一昨年の秋以来だった。
 幼い頃には夏ごとに訪ねた家なのに、昨夜は持っていく服を二度も替えた。川辺を歩くかもしれないから、靴は丈夫なものにした。それとは別に、晩餐用の靴も入れている。
「青い服、よく似合っているわ」
 母が言った。
「汚れが目立たないと思いまして」
「それにしては、リボンを選ぶのにずいぶん時間がかかったのね」
 父が窓の外を向いたまま笑った。ミレイユは膝掛けを指でならした。
「昔から知っている家へ伺うにも、礼儀は必要ですから」
「もちろんよ」
 母はそれだけ言い、彼女のリボンへはもう触れなかった。
 川が見えてきたのは昼前だった。窓を少し開けると、冷たい空気とともに水の音が入ってくる。緩い坂を上がったところに、白い石造りの別邸があった。玄関の階段を下りてきたオーウェンは、王都で会った時よりも簡素な上着を着ていた。
「道は荒れていませんでしたか」
「最後の曲がり角だけ、少し揺れたわ」
「そこはまだ手が入っていなくて。伯爵、夫人、お越しいただいてありがとうございます」
 両親への挨拶を終えた彼が、馬車の踏み台の下で手を差し出す。ミレイユはその手を取った。手袋越しに、支えられる力が伝わった。
「三泊の客に、そんなに改まるの?」
「君が玄関の前で転んだら、出迎えを失敗したことになる」
「わたくしが転ぶ前提なのはどうして」
「足元を見ずに川を見ていたから」
 図星だった。彼女が階段の向こうへ視線を戻すと、オーウェンは手を離して笑った。
「あとで行こう。昼食のあと、橋を見に行くことになっている。散歩には少し騒がしいが、よければ一緒に」
「見に行っても、お邪魔にならない?」
「危ない所には入れない。泥を嫌わなければ」
「靴は選んできました」
 彼が一度、彼女の足元を見た。それから顔を上げた時、いかにも嬉しそうだったので、ミレイユは余計なことまで言ったような気がした。
 部屋へ案内されると、窓辺の小卓に赤い帆の玩具船が置かれていた。先日、二人で王都の店で選んだ船だ。水に浮かべる前の小さな船体が、三月の弱い光を受けている。
 家令によると、オーウェンが朝、自分でここへ運んできたという。
「帆が曲がっていないか、何度か確かめていらっしゃいました」
「そんなに何度も?」
「二度でございます」
 十分に多い、とミレイユは思った。船の横へ指を伸ばすと、細い糸がぴんと張っていた。彼女は帆の角度をそっと確かめた。昼食に呼ばれると、もう一度だけ船を見てから部屋を出た。

 食後、母は長旅のあとの休息を選び、父はオーウェンと領内の近況を話しながら玄関を出た。ミレイユも外套を着て続いた。
 橋の工事場までは、馬車で十分ほどだった。前の冬に傷んだ古い橋を架け替えるため、岸辺には太い材木と石材が積まれている。その少し上流に、工事中だけ使う木の仮橋があった。
 ミレイユの記憶にある川幅より、水の流れる場所が広い。雪解け水が入る季節なのだと、オーウェンが教えた。
「四月の終わりには、川開きの馬車が渡るのね」
「新しい橋を。そのつもりで進めている」
 彼の返事には、彼女の知る気軽な言い方がなかった。
 工事の責任者が帽子を取り、図面を広げた。オーウェンは挨拶のあと、まず仮橋へ目を向けた。橋の手前では、荷を積んだ二台の馬車が順番を待っている。
「昨日の報告で、継ぎ目が浮いたとあったが」
「東側を直しました。軽い馬車なら通せます。ただ、今朝は中ほどでも音がしまして」
「人を通して確認したのか」
「空荷の馬車を一台、ゆっくりと」
 責任者は言い終える前に口を結んだ。オーウェンは図面を見ず、仮橋の上に立つ見張りへ声をかけた。
「次は通さないでくれ」
 見張りが両手を上げた。馬車の御者が驚いた顔をし、待っていた男たちの話し声が大きくなる。
「公爵様、今日の荷は市場へ入れる分でして」
 荷馬車の持ち主らしい男が近づいてきた。
「橋は点検を終えるまで閉める」
「向こう岸に渡れなければ、夕方に間に合いません」
「渡し場まで戻れるか」
「いまから並び直したら、日が暮れます。今日は二艘しか出ていませんから」
 オーウェンは家令を振り返った。
「下流の船宿へ使いを。もう一艘出せるか聞いてくれ。船頭が足りなければ、こちらの船着き場から人を回す。増便の賃金はうちで持つ」
「かしこまりました」
 待たせる荷は近くの倉へ無償で入れ、遅れる配達先にも知らせるよう、オーウェンは家令に頼んだ。従者が届け先を聞き取り始めると、男も樽を覆う布から手を離した。
 ミレイユはその輪から少し離れ、渡し場の方を見た。岸沿いの道を下れば着くというが、荷のない人も歩き出せずに立っている。籠を持つ女が、年老いた母親らしい人の腕を支えていた。
「渡し場の道は、ぬかるんでいますか」
 ミレイユが尋ねると、女は驚いたように彼女を見た。
「昨日の雨で、少し。母は足が悪くて、あの坂が下りられるかどうか」
 ミレイユは父を呼び、来た時の馬車を使えないか相談した。父は御者へ声をかけ、渡し場の坂の手前まで二人を乗せていくよう頼んだ。
「ありがとうございます。けれど、皆様のお帰りは」
「父は立ち話を始めると長いので。往復しても、まだここにいると思います」
「ミレイユ、聞こえているぞ」
 父の声に、女が初めて笑った。ミレイユは女の籠を預かり、馬車へ運んだ。思っていたより重く、持ち替えようとしたところで、横からオーウェンが底を支えた。
「何が入っている」
「卵だそうです。わたくしを驚かせないで」
「驚いて落とすのは、俺の責任か」
「今はそういうことにして」
 二人で籠を積むと、彼は手を放した。女たちを乗せた馬車が去り、父は本当に工事の責任者と話し始めていた。
 オーウェンは仮橋を改めて確かめに行った。ミレイユは安全な岸で待ちながら、彼が責任者の説明を聞く様子を見ていた。相手が言い淀んでも先に答えを言わず、分からない所では図を指して問い直す。
 やがて戻ってきた彼は、手袋を外し、指に付いた木屑を払った。
「直した所だけの問題ではなさそうだ。補強を頼む」
「人手は新しい橋に回しております。そちらを止めれば」
「予定が延びる。それは俺から行事の委員会へ話す。仮橋の補強を先にしてくれ」
「川開きまでに間に合わない場合もございます」
「まだ間に合うと言っておく方が、君たちは困るだろう」
 責任者の肩が、わずかに下がった。
「明日の午前には、必要な材と人数を出します」
「王都から呼べる大工も当たってくれ。賃金を下げて帳尻を合わせないように。金額は見積りで確認する」
 側にいた家令が頷いた。ミレイユは、オーウェンが広げた図面へ少し目を落とした。赤い印が何本も引かれている。彼が言った一言で職人が増えたり、材木が現れたりするわけではない。これから変更の費用を決め、別の工事との調整もしなければならないのだ。
「川開きは中止になるの?」
 帰りの馬車を待つ間、ミレイユは尋ねた。
「今は決めない。まず、どこまで遅れるかを知りたい」
「皆、楽しみにしているのでしょう」
「俺も楽しみだ」
 彼は川の方を見た。
「だから、開くために何をやめるか、先に決めておきたい」
 その声を聞いて、ミレイユは彼の顔を見直した。何かを願う人の前で、出来ないことを口にするのは難しい。期待を向けられたまま、それに頷かない彼を、ミレイユは初めて見た気がした。
 風が強まり、彼女の外套の端をめくった。彼が近づいて留め具を見たので、ミレイユは自分で襟元を押さえた。
「留め直せます」
「知っている。さっきから指が冷えているだろうと思って」
 彼は自分の手袋をはめ直した。そのまま彼女の手に触れることはなかった。
「君も、寒いなら言ってくれ。俺は作業を見ていると長くなる」
「それなら、少し寒いわ」
「屋根のある所へ行こう」
 あまりに早く返ってきたので、ミレイユは笑ってしまった。
「何だ」
「言ってから考える時間があると思っていたの」
「寒いと言った人を、ここへ置いて考えるのか?」
「そうね。変なことを言いました」
 オーウェンは、なぜ彼女が笑ったのかを問い詰めなかった。仮の事務小屋の戸を開け、火鉢から少し離れた椅子を彼女へ引いてくれた。

 別邸へ戻ったあとも、彼の仕事は続いた。予定より長い外出になった父は、母に「三時間」とからかわれ、客間へ戻っていった。
 ミレイユは書斎の前を通りかかり、半開きの戸の奥にオーウェンを見つけた。机には昼の図面が載り、脇に二通の手紙がある。彼は片方を封じると、戸口へ顔を向けた。
「何か探している?」
「船を置く場所を。窓辺は、帆が日に焼けないかと思って」
「まだ春なのに」
「大事にするなら、初めから大事にしたいもの」
 彼は笑って、入ってくれと言った。ミレイユは机の反対側に立ち、図面の上へ影を落とさないようにした。
「今日、困ったことを聞いたでしょう」
「何を」
「川開きが中止になるのかと。答えが出ないことを聞いてしまったから」
「困ってはいない。聞かれるだろうと思っていたし、実際、委員会からも聞かれる」
「あなたは、何でも知っているように見えるのに」
「そう見えたなら、今日はうまく取り繕ったな」
 彼は椅子の背へ体を預け、片手で額を押さえた。
「職人に任せた方がいい所まで、知った顔をする必要はない。俺が橋の継ぎ目を選んでも、誰も安心しないだろう」
「わたくしは、きっと渡らないわ」
「君だけでも渡ってくれ」
「ご自分で試してからにしてください」
 彼が声を出して笑った。昼間、皆の前で判断していた人の頬がゆるみ、彼女を見ている。ミレイユは、もう一言何かを言いたくなった。
「でも、皆があなたに話しかける理由は分かった気がする」
「籠を持ってくれるから?」
「そちらはわたくしも持ったわ。卵を割らずに」
「よく働いてくれた」
 褒め方が子供の頃のままだったので、彼女は目を細めた。
「お手伝いの褒美に、焼き菓子を一枚?」
「それで君を雇えるなら安い」
「雇われません。客として来たのですもの」
「では、客としてひとつ頼んでもいいか」
 オーウェンがまっすぐ彼女を見た。
「今夜、食後に少しだけ歩こう。母上の休まれる時間より前に。今日、君と話したかったことの半分も話せていない」
 ミレイユは机の手紙へ目を向けた。
「お仕事は?」
「これを渡せば、夕食までの分は終わる。夕食が済んだら君と話したい」
 彼の声に、遠回しなところはなかった。客だからという理由ではない誘いだと、聞いてしまう。
「半分とは、どれくらい?」
「君が帰るまでに話し終えるには、今夜だけでは足りない程度」
「それなら、明日も聞くわ」
 答えてから、ミレイユは窓の外へ顔を向けた。庭の木が揺れている。明日は雨になるという話だった。
 オーウェンが椅子から立った。
「ミレイユ」
「はい」
「今、俺はかなり嬉しい」
「……それは、顔を見れば分かります」
 廊下へ出てから、彼女は自分の頬を手の甲で確かめた。まだ、川風の冷たさが残っているはずだった。
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