「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第5話 知らない顔を、もっと見たい



 食後の廊下には、まだ食卓の明かりが届いていた。窓の外は暗く、庭へ下りる扉は風に備えて閉じられている。
 少し歩こうというオーウェンの誘いは、二階の長い回廊を往復することに変わった。
「散歩としては短いわね」
「君は今日、十分に歩いた」
「もっと長くてもよかったのよ」
「それなら、もう一往復できる」
 ミレイユは彼の横で歩調を緩めた。昼間は泥に覆われていた靴が磨かれ、夜の上着に替わっている。襟元がきちんと整うと、書斎で笑っていた人も改まって見えた。
「今夜、何を話したかったの?」
「君の部屋の椅子は、まだ座りにくいか」
「それが半分も話せていないこと?」
「最初に聞いておきたいことだ」
 言われて思い出した。何年か前、客室の窓辺にある椅子は背が高すぎて、本を読むと肩が凝るとこぼした。今回置かれていたのは、背の低い、肘掛けの丸い椅子だった。
「替えてくださったのね」
「今年、張り替える時に。古い椅子は別の部屋へ移した」
「前のものは、あなたにはよかったのかもしれないわ」
「俺には少し小さかった」
「それをわたくしに聞く前に、替えたの?」
 彼が足を止めた。ミレイユも止まる。
「勝手に決めすぎたか」
「いいえ。座り心地はとてもよかった。でも、わたくしのためにお部屋を変える必要はないと思って」
「君のためだけではないよ。あの椅子が好きな客もいたので、残してある。君が来る時は、いまの椅子を置いておきたい」
 彼女は笑いそうになり、彼の顔を見て笑えなくなった。
「また来ると思っているのね」
「来てほしいと思っている」
 回廊の奥から、食器を運ぶ音がした。給仕がこちらへ来るまでの短い間に、何か返さなければと思った。
「その時は、椅子以外の注文もつけるかもしれないわ」
「食べ物以外なら驚く」
「明日の雨を止めてください」
「それは無理だ。別の注文にしてくれ」
 給仕が二人の脇を通り過ぎた。ミレイユは歩き始めながら、口元を押さえた。
 気を遣って何でも叶うように言ってしまわないところが、今夜は少し可笑しかった。
「では明日は、あなたに退屈をしのいでもらいます」
「俺が?」
「川へ行けない代わりに。何か面白い遊びを考えておいて」
「要求が厳しくなったな」
「あなたが別の注文にしてくれと言ったのですもの」
 彼はすぐに返さず、彼女を見た。
「明日が楽しみになった」
 先に言われた。ミレイユは窓の暗いガラスへ目を向けた。そこに映る自分は、思っていたよりも機嫌のよい顔をしている。

 翌朝は、朝食の前から雨だった。
 川の方から吹く風が窓を鳴らし、母は暖炉のそばで刺繍枠を手に取った。父は書庫で見つけた地図集を抱え、旅先でも机に向かう気満々だった。
「三泊のうちに、全部お読みになるおつもり?」
 ミレイユの問いに、父はページの間へ栞を挟んだ。
「全部は無理だろう。だから、次の時に続きを読ませてもらおう」
 父まで次の訪問を考えている。母が一瞬だけ娘を見たが、何も言わなかった。
 オーウェンは朝の用事を済ませてから、客間へやってきた。腕の下に、四角い木箱を抱えている。
「遊びを考えておいてと言われたから」
 箱を開くと、小さな木の輪と棒が入っていた。卓上で遊ぶ輪投げだった。
「まさかこれで、わたくしを丸一日もてなすつもり?」
「まず一時間。君が負けを認めるまで、もう少しかかるかもしれない」
「勝つ人の台詞とは思えません」
 父が地図集から目を上げ、「卓を傷つけるなよ」と注意した。オーウェンは敷物も持ってきたと言い、細長い卓の上に厚い布を広げた。
 投げる場所を決め、最初の一投はミレイユに譲られた。
 輪は三本ある棒の間を滑り、端で倒れた。彼女は輪を拾い、何気ない顔で元の場所へ戻った。
「今のは試しです」
「そうだろうと思った」
「では、あなたも一度どうぞ」
 オーウェンが投げた輪は、いちばん得点の高い棒へ引っかかった。
 ミレイユは卓の横へ回り、棒の高さを見た。どこも同じ長さだった。
「何か疑っているだろう」
「あなたの腕の長さが有利ではないかと」
「生まれつきのことまで言われるのか」
「公平な勝負にしたいの」
 彼は半歩下がった。
「これでいい?」
「下がりすぎだわ。そんなに不利な条件で勝たれては困るもの」
 母が刺繍枠の向こうで笑った。ミレイユはわざと聞こえないふりをし、今度こそ本番だと輪を取った。
 二度目は端の棒に入った。小さく声を上げた彼女に、オーウェンが拍手をした。
「まだ喜ばないで。次は真ん中へ入れます」
「君がそう言うと、真ん中の棒が心配だ」
「折りません」
 三度目の輪は、棒の先に当たって彼の足元へ落ちた。彼が拾おうと屈み、ミレイユも手を伸ばした。
 額が触れそうになり、二人とも動きを止める。
「……危ないわ」
「先に拾うと、怒られると思って」
「怒りません」
「さっきまで、腕が長いと怒っていた」
 彼女は返事に困り、先に輪を拾って卓へ置いた。近くで見た彼の目元には、まだ笑いが残っていた。そこへもう一度顔を近づけることを考えてしまい、ミレイユは輪を三つまとめて持った。
 勝負は、結局一時間半続いた。
 最後の一回だけ、と彼女が言い始めたところで、母が昼食の前には片づけるよう告げた。ミレイユは勝って終わるために最後の一投を引き受け、最も点の低い棒に入れた。
「入りました」
「入ったな」
「今日はこれで終わりにしてあげます」
 オーウェンが目を伏せた。肩が揺れている。
「笑うことはないでしょう。最後はわたくしが入れたのよ」
「その言い方が、久しぶりで」
 ミレイユは輪を箱へ戻しかけ、少し考えた。
 確かに、人前ではしなくなっていた言い方だった。子供じみていると思われたくなかったし、意地を張る女に見られるのも嫌だった。
「やめた方がいい?」
「いや。もっと聞きたい」
 彼は箱を受け取り、最後の一本を揃えて入れた。
「君は負けたあとに、必ず次の勝負の話をする。俺はそれが好きだ」
 ミレイユは、次はいつにするかと聞くはずだった口を閉じた。
 母が刺繍の糸を切る、小さな音がした。

 昼食のあとは、それぞれの部屋で休むことになった。ミレイユは窓辺の椅子へ座り、持参した小説を開いたが、同じ行を二度読んだ。
 雨はやまず、赤い帆の船が小卓に置かれている。船首の方へ顔を寄せると、昨日は気づかなかった帆のねじれが目に入った。
 糸の張り方を変えるだけで直るかもしれない。そう思って触っているうちに、帆の下端を留めていた糸が一本、するりと抜けた。
「……あら」
 糸を戻そうとしたが、小さな穴に指が届かない。無理に引くと帆まで裂けそうだった。
 ミレイユは船を持ち、廊下へ出た。ちょうど階段を上がってきたオーウェンと目が合った。
「壊れた?」
「まだ壊れてはいません」
「これから壊れるところか」
「直そうとしたの。でも、わたくしの指には少し難しくて」
 彼は船を受け取り、帆を横から見た。
「先に針を通して、糸を引こう。下の小部屋なら、道具がある」
「あなたが直せるの?」
「この程度なら。難しい所は職人に頼む」
 小部屋は庭の道具を納める場所の隣にあった。窓の下に作業台があり、壁には小さな金槌や鋏が掛かっている。彼は乾いた布を台へ敷き、玩具船を横たえた。
「ここへ来るのは初めてだわ」
「君が道具を持ち出すと、昔の庭師に叱られたからな」
「花壇を掘ったことを、まだ言うつもり?」
「何も言っていない」
「穴を掘ったのは、あなたも一緒です」
「覚えているよ。だから、何も言っていない」
 彼が針へ糸を通すのを見て、ミレイユは黙った。子供の話にしてしまえば、いつまでも話せる。それを続けると、今日見つけた顔まで見逃してしまいそうだった。
「どうして、こんなことができるようになったの」
「船の帆を直すこと?」
「縫い物」
「旅先で、袖がほつれた。替えの服を出すより、自分で直した方が早かったので」
 彼は平気な顔で答えた。指先の動きは、彼女ほど細かくない。穴へ通す時だけ、目を少し細める。
「三針くらいなら俺でも縫える。四針目から怪しくなる」
「わたくしなら、五針目まではお任せできると思うわ」
「高い評価だな」
「今、少し甘くつけました」
 彼は笑い、針を通した糸を引いた。帆が真っ直ぐになったので、ミレイユは両手で船体を支えた。
「そこで持っていてくれ。強く引くと船が動く」
「これくらい?」
「ちょうどいい」
 二人で一つの小さな船を覗き込む。彼の袖が彼女の手首に触れていた。ミレイユが少しずれると、彼も体を寄せ直した。
「見えにくい?」
「少し」
「わたくしが持ち上げるわ」
「それでは君が疲れる。俺が屈む」
 彼はそう言って、彼女の肩越しではなく、隣から帆を覗いた。近すぎるような気がしたが、どちらかが離れると手元が見えなくなる。
 糸を留めたあとも、彼女はすぐに船を放せなかった。
「できた」
 オーウェンが言った。
 ミレイユは船から手を離した。彼は道具を片づけながら、低い声で短い旋律を口ずさんだ。
 どこかで聞いた曲だった。しかし、終わりの音が二つほど違う。
「その曲……」
「何だ」
「わざと?」
 彼が手を止めた。
「今のを聞いていたのか」
「聞こえました。最後はもっと高い音でしょう」
「そうだったか」
 ミレイユが小さく歌うと、彼はもう一度同じところを歌った。先ほどよりは近づいたが、やはり違った。
 彼女は耐えようとした。彼が真剣な顔をしているので、余計にいけなかった。
「笑っていいぞ」
「すみませ……いいえ、ちょっと待って」
 待てなかった。ミレイユは作業台に手をつき、声を出して笑った。彼はしばらく不服そうにしていたが、やがて自分でも笑い始めた。
「楽譜は読めるのよね?」
「読める。頭の中では、正しい音も分かる」
「それが、外へ出るまでに迷子になるのね」
「かなり遠くまで行ったらしい」
 笑いがやむと、彼は台の上の船を起こした。赤い帆が、前よりも少し高く張っている。
「君がいま歌った曲は、今月、王都で演奏されるはずだ。行くつもりか」
「まだ決めていないわ。母のお友達から、お席はあると言われたけれど」
「俺はその日は戻っている」
 返事を待つような間があった。ミレイユは帆の端を軽く押さえた。
「あなたが歌うのではないでしょうね」
「客席からは歌わないと約束する」
「では、考えておきます」
 彼は「ぜひ」とも「いつまで」とも言わず、彼女の方へ船を差し出した。
 受け取る時、指が触れた。そのまま彼の指を握ってしまえば、どんな顔をするだろう。考えただけで、ミレイユは船を持つ両手に力を入れていた。

 雨はその日の夜に上がった。三日目には母も川沿いの道を歩き、父は地図集を一冊だけ借りる許しをもらった。
 オーウェンは仮橋の補強を見に出かけたが、昼食には戻ってきた。すでに決めていた散歩の時刻を、朝のうちに一時間遅らせてくれと相談されたので、ミレイユはその間に母と買い物へ行った。
 領の小さな店で見つけたのは、細い縞模様の布だった。赤い帆の船に、旗を一本つけられそうな厚さだった。
「もっと小さな端切れでよかったかしら」
「袋か何かを縫えばいいわ」
 母が答えた。
 ミレイユは、オーウェンが四針目から怪しくなると言っていたことを思い出し、笑いそうになった。小さな袋なら、二人で縫えるかもしれない。
 午後の散歩では、岸から少し離れた庭の道を歩いた。彼に布を見せると、旗をつけるのに船をもう一度いじって大丈夫かと、真面目な顔で聞かれた。
「わたくし一人ではやりません」
「なら、大丈夫だ」
「わたくしの手先を、もう少し信用して」
 彼女が言うと、オーウェンは軽く肩をすくめた。
「君が一人で始めてしまったら、俺が一緒にやる分がなくなる」
 ミレイユは返事をしそこねた。
 彼女の手から布を取り上げたりせず、ただ隣で、風に揺れる小さな布の端を見ている。その横顔を、もう少し見ていたくなった。

 帰る朝、荷物を積み終えた馬車が玄関に着くと、ミレイユは母へ先に乗ってもらった。
 父が家令に礼を言っている間、彼女はオーウェンのそばへ行った。
「船は、ここへ置いておいてね」
「君の部屋に?」
「ええ。もう少し、帆の様子を見たいから」
「次までに、勝手に手を入れないようにする」
 彼は少し笑って、馬車の扉へ手をかけた。
 ミレイユは、まだ言えていない用事を思い出したふりをした。前の晩から言うつもりだったことなのに、その言い方が決まっていなかった。
「それから、音楽会だけれど」
 彼の手が止まった。
「二人分のお席を、頼んでみようと思います」
「誰と行く?」
「……聞かなければ分からない?」
「分かっていても、聞きたい」
 ミレイユは彼を見た。からかう時の顔をしているが、返事を待つ目だけは真剣だった。
「オーウェン。わたくしと、音楽会へ行きませんか」
「行くよ」
 答えが速すぎて、彼女は笑った。
「お仕事の予定を確かめてからではないの」
「昨日、確かめた。君に誘われたかったから」
 足を踏み外しかけたのは、馬車へ乗る時だった。彼に支えられ、ミレイユは自分の靴先を睨んだ。
「今のは、わたくしが足元を見なかったせいです」
「覚えておく」
 扉が閉まる前に、オーウェンが身を屈めた。
「楽しみにしている」
 ミレイユは頷いた。馬車が動き出してからも、窓の外へ手を振っていた。
 彼の姿が見えなくなると、母が何も言わずに膝掛けを差し出した。ミレイユはそれを受け取り、顔を少しだけ隠した。
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