「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第6話 わたくしから誘います
音楽会の切符は、二日後に届いた。
母の友人が手配してくれたのは、昼の公演の二階席だった。舞台がよく見え、休憩の間は小さな回廊へ出られるという。
ミレイユは切符を二枚並べ、その横でオーウェンへ手紙を書いた。日時を記し、待ち合わせる場所を決め、夕方までに帰宅するつもりだと添えた。
最後に、演奏のあとに時間があれば少し歩きたい、と書いた。
そこで筆を置いた。
少し、とつければ気軽な誘いになる。しかし本当は、短く切り上げたいとは思っていなかった。彼が時間を空けられるなら、お茶も一緒に飲みたい。
書き損じの紙を増やす前に、ミレイユは最後の一文だけを書き直した。
演奏が終わったら、お茶をご一緒しませんか。
「こちらでお出ししてよろしいですか」
ドリスが訊いた。ミレイユは封をしながら頷いた。
「ええ。返事が届いたら、すぐに教えて」
「お急ぎのお手紙なのでしょうか」
「そうでもないの。ただ、待っているから」
ドリスは何か言いたそうにしたが、そのまま手紙を受け取った。彼女が出ていくと、ミレイユは机に残る二枚の切符を裏返したり、表へ戻したりした。
返事は翌朝に届いた。喜んでご一緒する、という短い手紙と、会場の近くにある喫茶室の名が二つ書かれていた。一つは庭に面した席があり、もう一つは雨でも歩かずに入れる。
最後には、どちらでも、君と話せる席にしてくれ、とあった。
ミレイユは窓を見た。晴れるかどうか、今からは分からない。けれど、どちらの日でも楽しみな約束になった。
当日は、薄い雲のある穏やかな午後だった。
ドリスを伴って会場へ着くと、オーウェンは入口の柱のそばに立っていた。彼女を見つけて近づき、馬車の扉が開くのを待つ。
「お待たせしました」
「まだ約束の時刻前だ」
「あなたの方が早かったのね」
「家を出るのが早すぎた」
「何か急ぐ用事があった?」
「あるとすれば、これだな」
彼は彼女の手から切符を一枚受け取った。公爵ならもっとよい席を用意できる、とは一言も言わなかった。ミレイユの選んだ切符を大事そうに持ち、案内人へ渡す。
二階へ上がる階段では、彼の腕を取った。人の目がある時の自然な作法なのに、肘の下へ添えた指を意識してしまう。
「青いリボンではないんだね」
彼が言った。
「今日は緑です。見れば分かるでしょう」
「見ているから言った」
彼女は階段を一段上がり、少しだけ彼の腕を強く掴んだ。
「今日は、足元も見ています」
「それなら安心した」
席に着くと、舞台の上では楽団員が音を確かめていた。少しずつ違う音が響き、それが一度やんだところで、最初の演奏者が礼をした。
ミレイユは膝に置いた手を揃えた。隣の彼を気にせず音楽を聴こうと思ったのに、最初の曲が始まったとたん、彼がこちらを見たのが分かった。
先日、小部屋で彼が歌っていた曲だった。
ミレイユは前を向いたまま、口元を引き締めた。笑ってはいけない。せっかく演奏している人へ失礼だ。
横から、ごく小さな声がした。
「歌っていない」
それで駄目になりかけた。彼女は指先を唇へ当て、肩を揺らさないようにした。彼もすぐに舞台へ目を戻す。
曲の終わりを正しい音で聴き終えると、ミレイユはいつもより大きく拍手をした。オーウェンも、その部分では納得したように頷いた。
次は二人の演奏者による曲だった。速く動く弦の音を、もう一人が少し遅れて受け取り、違う旋律を返す。どちらかが先へ出ると、もう一人が追いつく。
ミレイユはそのやり取りを面白く思い、隣へ小さく顔を向けた。オーウェンが舞台を見たまま、一度だけ頷いた。説明しなくても、いま同じ所を面白がっていると分かった。
休憩の鐘が鳴ると、彼は回廊へ出ようと誘った。ドリスも少し離れてついてくる。
窓から下の庭が見えた。冬の覆いを外したばかりの植え込みの間に、早咲きの花が並んでいる。
「あの二人の曲、好きだわ」
「俺も。最初は競争しているのかと思った」
「少し競争していたでしょう」
「君にはそう聴こえた?」
「ええ。負けた方が、最後にもう一度やろうと言いそうだった」
彼が笑ったので、ミレイユは肘で軽く彼の腕を押した。
「わたくしの話ではありません」
「何も言っていない」
「顔に書いてあるわ」
「君は俺の顔をよく見ているな」
ミレイユは窓の外へ視線を戻した。それは彼にも同じことが言えるはずだが、今すぐ言い返すと、言葉より声の方が困ったことになりそうだった。
回廊の端から、見覚えのある子爵夫人が近づいてきた。母の知人で、オーウェンとも挨拶を交わしたことがある人だった。
「お二人でいらしたのね。こちらのお席、よく取れましたこと」
「母のお友達に、頼んでいただきました」
ミレイユが答えると、夫人はオーウェンへ顔を向けた。
「公爵様、お誘いできてよろしゅうございましたわね」
「今日は私が誘ってもらったんです」
彼が自然に答えた。ミレイユは彼を見た。
「ミレイユが席を取ってくれました。演奏のあとのお茶まで」
「まあ。それでは、よい午後になりそうね」
「ええ。もう、なっています」
夫人は微笑んで、先へ行った。
ミレイユは、そっと息を吐いた。気恥ずかしくはあったが、自分のしたことを彼の手柄にしない返しが嬉しかった。
「お茶のお席は、まだ決めていません」
彼女が言うと、オーウェンは窓の外へ目をやった。
「この天気なら、庭の方へ行けそうだ」
「ええ。でも、あなたは甘いものばかり注文しないでね」
「君の皿を見てから決めようと思っていた」
「わたくしの分を食べるおつもり?」
「分けてくれるのか」
彼女は答えず、ちょうど鳴った鐘を理由に先に歩き始めた。
公演が終わったあと、二人は庭へ続く喫茶室へ入った。
丸い卓には白い布がかかり、花瓶に薄紫の小花が挿してあった。ドリスは入口に近い別の席へ案内され、温かい飲み物を頼んだ。
ミレイユは焼いた果実の菓子を選び、オーウェンは塩味の小さなパイを頼んだ。運ばれてくるまでの間、曲の感想を話した。彼女が最初の曲の終わりを褒めると、彼は自分に聞かせるために選曲したのではないかと疑った。
「そこまでわたくしに力はありません」
「残念だ。次は俺が間違えやすい所を、繰り返してもらおうかと思った」
「練習するつもりなの?」
「君があんなに笑うなら、正しく歌えるようになるのは惜しい」
ミレイユは、手元のナプキンを広げ直した。
からかわれるのは好きではない。けれど、彼が自分を笑わせたいと思うのと同じように、彼女も彼の笑う顔を見たかった。
「それでは、わたくしは毎回笑わなければいけないわね」
「そのうち慣れるだろう」
「まだ新しい間違いがあるかもしれません」
「期待しないでくれ」
ちょうど菓子が運ばれ、ミレイユは笑ったまま礼を言った。
果実の菓子は思ったより大きかった。彼女が皿の片側へ切り分けると、彼が自分の小皿を差し出した。
「まだ、あげるとは言っていません」
「君が全部食べたいなら、引っ込める」
「……その代わり、パイを少しください」
「喜んで」
交換したパイには、きのこと柔らかな肉が入っていた。ミレイユは一口食べ、次は最初からこちらを頼んでもいいと思った。
「おいしい」
「次も来よう」
オーウェンが言った。
あまりに当然のような声だったので、ミレイユはフォークを置いた。彼は彼女の皿から分けられた菓子を食べ、顔を上げる。
「嫌だった?」
「いいえ。次の約束を、ここでしていいのねと思って」
「俺はしたい」
彼女は窓辺の花を見た。細い茎が、誰かの通った風でわずかに動いた。
「オーウェン。わたくしは、あなたといると、よく笑っているでしょう」
「今日は特に」
「あなたもよ」
「そうだね」
「昔から仲がよかったからだと、思っていたの」
彼はフォークを置いた。急かす声を挟まず、彼女の続きを待っている。
「けれど、今のあなたを、知らないことばかりでした。工事の人の話を聞く顔も。針に糸を通す時に目を細めることも」
「糸は細かった」
「言い訳しないで。わたくしは、そこが気になったの」
彼の口元にあった笑みが、少し変わった。ミレイユは照れたが、目を逸らさなかった。
「知らなかったことを、もう少し知りたいの。次に会って何を話すか、帰ってから考えてしまう。今日は、あなたが楽しんでくれるか、朝から気にしていたわ」
「十分に楽しんでいる」
「ええ。それは分かりました」
今なら言えると思った。胸が高く鳴っているのに、声は思ったよりも確かだった。
「あなたと、お付き合いをしたいです。幼なじみとして出かけるだけではなくて」
オーウェンが一度、手元を見た。彼女の言ったことを、そこで確かめているようだった。
「俺が口説くと言ってから、まだ日が浅い」
「早いと言うつもり?」
「いや。嬉しくて、間違って聞かなかったかと思っている」
ミレイユは笑った。彼が続けた。
「俺も、君と付き合いたい。今度は、君の恋人として会いに行く」
「何か変わるの?」
「変えたいことはいろいろある」
「どんなこと?」
彼は少しだけ体を前へ寄せた。
「君が帰る時、もう少し一緒にいたいと言う。手を取りたいと思ったら、そう言う。他の男と出かけると聞けば、俺と出かけてほしいと頼む」
彼女は膝の上で指を握った。
「ずいぶん、欲張りなのね」
「これでも、全部ではない」
ミレイユは彼の顔を見て、笑うのをやめた。彼が冗談だけで言っているのでないと分かると、テーブルの幅が急に惜しくなった。
「今日は、手を取りたいと思ってくださらないの」
口に出したあと、彼女の方が驚いた。
オーウェンはすぐに立ち上がらず、彼女の目を見て頷いた。
「思っている。外を歩こうか」
喫茶室の庭には、小さな噴水と、その周りを一周できる砂利道があった。
ドリスが外套を持ってきてくれた。ミレイユはそれを着ると、手袋の指先を引いて外した。オーウェンも片方の手袋を外していた。
何も挟まずに手を取ることが、こんなに違うとは知らなかった。
彼の手は、彼女の手のひらを包むほど大きい。親指が指の付け根に触れ、少し位置を変えた。冷えた手に彼の温度が伝わってくる。
「冷たいな」
「緊張しているせいかもしれません」
「それを言われると、俺も困る」
彼が握り直した。ミレイユは、その力へ自分の指を返した。
歩き始めると、言葉は少なくなった。噴水の水音と、靴の下で砂利の鳴る音がした。庭の端まで行き、折り返す時も、彼の手は離れなかった。
「今日は、あなたを誘ってよかった」
ミレイユが言った。
「次は俺に誘わせてくれ」
「それで、わたくしの番は終わり?」
「終わらせるつもりはない。君からも、また誘ってほしい」
「考えておきます」
「そこは、すぐに頷いてくれてもいい」
彼女は笑い、庭の奥で足を止めた。背の高い植え込みの手前に、雨除けの小さな庇が出ている。ここなら風が弱かった。
オーウェンが彼女の頬に触れた。手を繋いでいない方の指で、耳の前の髪を少し整える。そのまま近づいた彼の顔を見上げ、ミレイユは自分から半歩寄った。
彼の唇が、頬へ短く触れた。
目を閉じる暇もなかった。離れた彼を見て、ミレイユは繋いだ手を引いた。
「もう帰る?」
「君の帰宅時刻まで、まだ少しある」
「それなら、もう一周したいわ」
彼は笑って、彼女の手を自分の腕へ引き寄せた。
「ゆっくり歩こう」
翌日の午後、母と出席した子爵夫人の茶会で、ミレイユはハロルドと顔を合わせた。
庭側の部屋へ入るところで呼び止められ、彼女は振り返った。ハロルドは花瓶の隣から離れ、昔と同じ距離まで近づこうとした。
「昨日は音楽会へ行ったそうだね」
「ええ」
「君のお母上に誘われたのかと思っていた。公爵とだったとは知らなかったよ」
「わたくしがお誘いしました」
彼の目が動いた。
「君が?」
「聴きたい演奏がありましたから」
「……僕も、あの曲は好きだったのに」
以前なら、次はご一緒しましょうと言ったかもしれない。ミレイユは茶会の奥にいる母を見た。夫人が彼女のために、席を一つ空けてくれている。
「そうでしたね。では、失礼いたします」
「ミレイユ」
ハロルドが呼び止めた。彼女がもう一度振り返ると、彼は少し笑おうとした。
「来週の展示会は、まだ予定を空けているだろう?」
「いいえ。別のお約束をしました」
オーウェンから今朝届いた手紙には、地図を売る店へ行かないかと書かれていた。父が別邸で借りた本の続きが、その店で見つかったらしい。彼には、彼女に見せたい川の絵もあるという。
ミレイユはその返事を、もう出していた。
「前から、話していたじゃないか」
「以前はそうでした。いまは違います」
彼女は礼をして、その場を離れた。茶会の女主人が新しい茶葉の説明を始めると、ミレイユは空いた席へ座り、香りを確かめた。
窓辺に差す光の色を見ながら、来週は何を着ようかと考えた。
母の友人が手配してくれたのは、昼の公演の二階席だった。舞台がよく見え、休憩の間は小さな回廊へ出られるという。
ミレイユは切符を二枚並べ、その横でオーウェンへ手紙を書いた。日時を記し、待ち合わせる場所を決め、夕方までに帰宅するつもりだと添えた。
最後に、演奏のあとに時間があれば少し歩きたい、と書いた。
そこで筆を置いた。
少し、とつければ気軽な誘いになる。しかし本当は、短く切り上げたいとは思っていなかった。彼が時間を空けられるなら、お茶も一緒に飲みたい。
書き損じの紙を増やす前に、ミレイユは最後の一文だけを書き直した。
演奏が終わったら、お茶をご一緒しませんか。
「こちらでお出ししてよろしいですか」
ドリスが訊いた。ミレイユは封をしながら頷いた。
「ええ。返事が届いたら、すぐに教えて」
「お急ぎのお手紙なのでしょうか」
「そうでもないの。ただ、待っているから」
ドリスは何か言いたそうにしたが、そのまま手紙を受け取った。彼女が出ていくと、ミレイユは机に残る二枚の切符を裏返したり、表へ戻したりした。
返事は翌朝に届いた。喜んでご一緒する、という短い手紙と、会場の近くにある喫茶室の名が二つ書かれていた。一つは庭に面した席があり、もう一つは雨でも歩かずに入れる。
最後には、どちらでも、君と話せる席にしてくれ、とあった。
ミレイユは窓を見た。晴れるかどうか、今からは分からない。けれど、どちらの日でも楽しみな約束になった。
当日は、薄い雲のある穏やかな午後だった。
ドリスを伴って会場へ着くと、オーウェンは入口の柱のそばに立っていた。彼女を見つけて近づき、馬車の扉が開くのを待つ。
「お待たせしました」
「まだ約束の時刻前だ」
「あなたの方が早かったのね」
「家を出るのが早すぎた」
「何か急ぐ用事があった?」
「あるとすれば、これだな」
彼は彼女の手から切符を一枚受け取った。公爵ならもっとよい席を用意できる、とは一言も言わなかった。ミレイユの選んだ切符を大事そうに持ち、案内人へ渡す。
二階へ上がる階段では、彼の腕を取った。人の目がある時の自然な作法なのに、肘の下へ添えた指を意識してしまう。
「青いリボンではないんだね」
彼が言った。
「今日は緑です。見れば分かるでしょう」
「見ているから言った」
彼女は階段を一段上がり、少しだけ彼の腕を強く掴んだ。
「今日は、足元も見ています」
「それなら安心した」
席に着くと、舞台の上では楽団員が音を確かめていた。少しずつ違う音が響き、それが一度やんだところで、最初の演奏者が礼をした。
ミレイユは膝に置いた手を揃えた。隣の彼を気にせず音楽を聴こうと思ったのに、最初の曲が始まったとたん、彼がこちらを見たのが分かった。
先日、小部屋で彼が歌っていた曲だった。
ミレイユは前を向いたまま、口元を引き締めた。笑ってはいけない。せっかく演奏している人へ失礼だ。
横から、ごく小さな声がした。
「歌っていない」
それで駄目になりかけた。彼女は指先を唇へ当て、肩を揺らさないようにした。彼もすぐに舞台へ目を戻す。
曲の終わりを正しい音で聴き終えると、ミレイユはいつもより大きく拍手をした。オーウェンも、その部分では納得したように頷いた。
次は二人の演奏者による曲だった。速く動く弦の音を、もう一人が少し遅れて受け取り、違う旋律を返す。どちらかが先へ出ると、もう一人が追いつく。
ミレイユはそのやり取りを面白く思い、隣へ小さく顔を向けた。オーウェンが舞台を見たまま、一度だけ頷いた。説明しなくても、いま同じ所を面白がっていると分かった。
休憩の鐘が鳴ると、彼は回廊へ出ようと誘った。ドリスも少し離れてついてくる。
窓から下の庭が見えた。冬の覆いを外したばかりの植え込みの間に、早咲きの花が並んでいる。
「あの二人の曲、好きだわ」
「俺も。最初は競争しているのかと思った」
「少し競争していたでしょう」
「君にはそう聴こえた?」
「ええ。負けた方が、最後にもう一度やろうと言いそうだった」
彼が笑ったので、ミレイユは肘で軽く彼の腕を押した。
「わたくしの話ではありません」
「何も言っていない」
「顔に書いてあるわ」
「君は俺の顔をよく見ているな」
ミレイユは窓の外へ視線を戻した。それは彼にも同じことが言えるはずだが、今すぐ言い返すと、言葉より声の方が困ったことになりそうだった。
回廊の端から、見覚えのある子爵夫人が近づいてきた。母の知人で、オーウェンとも挨拶を交わしたことがある人だった。
「お二人でいらしたのね。こちらのお席、よく取れましたこと」
「母のお友達に、頼んでいただきました」
ミレイユが答えると、夫人はオーウェンへ顔を向けた。
「公爵様、お誘いできてよろしゅうございましたわね」
「今日は私が誘ってもらったんです」
彼が自然に答えた。ミレイユは彼を見た。
「ミレイユが席を取ってくれました。演奏のあとのお茶まで」
「まあ。それでは、よい午後になりそうね」
「ええ。もう、なっています」
夫人は微笑んで、先へ行った。
ミレイユは、そっと息を吐いた。気恥ずかしくはあったが、自分のしたことを彼の手柄にしない返しが嬉しかった。
「お茶のお席は、まだ決めていません」
彼女が言うと、オーウェンは窓の外へ目をやった。
「この天気なら、庭の方へ行けそうだ」
「ええ。でも、あなたは甘いものばかり注文しないでね」
「君の皿を見てから決めようと思っていた」
「わたくしの分を食べるおつもり?」
「分けてくれるのか」
彼女は答えず、ちょうど鳴った鐘を理由に先に歩き始めた。
公演が終わったあと、二人は庭へ続く喫茶室へ入った。
丸い卓には白い布がかかり、花瓶に薄紫の小花が挿してあった。ドリスは入口に近い別の席へ案内され、温かい飲み物を頼んだ。
ミレイユは焼いた果実の菓子を選び、オーウェンは塩味の小さなパイを頼んだ。運ばれてくるまでの間、曲の感想を話した。彼女が最初の曲の終わりを褒めると、彼は自分に聞かせるために選曲したのではないかと疑った。
「そこまでわたくしに力はありません」
「残念だ。次は俺が間違えやすい所を、繰り返してもらおうかと思った」
「練習するつもりなの?」
「君があんなに笑うなら、正しく歌えるようになるのは惜しい」
ミレイユは、手元のナプキンを広げ直した。
からかわれるのは好きではない。けれど、彼が自分を笑わせたいと思うのと同じように、彼女も彼の笑う顔を見たかった。
「それでは、わたくしは毎回笑わなければいけないわね」
「そのうち慣れるだろう」
「まだ新しい間違いがあるかもしれません」
「期待しないでくれ」
ちょうど菓子が運ばれ、ミレイユは笑ったまま礼を言った。
果実の菓子は思ったより大きかった。彼女が皿の片側へ切り分けると、彼が自分の小皿を差し出した。
「まだ、あげるとは言っていません」
「君が全部食べたいなら、引っ込める」
「……その代わり、パイを少しください」
「喜んで」
交換したパイには、きのこと柔らかな肉が入っていた。ミレイユは一口食べ、次は最初からこちらを頼んでもいいと思った。
「おいしい」
「次も来よう」
オーウェンが言った。
あまりに当然のような声だったので、ミレイユはフォークを置いた。彼は彼女の皿から分けられた菓子を食べ、顔を上げる。
「嫌だった?」
「いいえ。次の約束を、ここでしていいのねと思って」
「俺はしたい」
彼女は窓辺の花を見た。細い茎が、誰かの通った風でわずかに動いた。
「オーウェン。わたくしは、あなたといると、よく笑っているでしょう」
「今日は特に」
「あなたもよ」
「そうだね」
「昔から仲がよかったからだと、思っていたの」
彼はフォークを置いた。急かす声を挟まず、彼女の続きを待っている。
「けれど、今のあなたを、知らないことばかりでした。工事の人の話を聞く顔も。針に糸を通す時に目を細めることも」
「糸は細かった」
「言い訳しないで。わたくしは、そこが気になったの」
彼の口元にあった笑みが、少し変わった。ミレイユは照れたが、目を逸らさなかった。
「知らなかったことを、もう少し知りたいの。次に会って何を話すか、帰ってから考えてしまう。今日は、あなたが楽しんでくれるか、朝から気にしていたわ」
「十分に楽しんでいる」
「ええ。それは分かりました」
今なら言えると思った。胸が高く鳴っているのに、声は思ったよりも確かだった。
「あなたと、お付き合いをしたいです。幼なじみとして出かけるだけではなくて」
オーウェンが一度、手元を見た。彼女の言ったことを、そこで確かめているようだった。
「俺が口説くと言ってから、まだ日が浅い」
「早いと言うつもり?」
「いや。嬉しくて、間違って聞かなかったかと思っている」
ミレイユは笑った。彼が続けた。
「俺も、君と付き合いたい。今度は、君の恋人として会いに行く」
「何か変わるの?」
「変えたいことはいろいろある」
「どんなこと?」
彼は少しだけ体を前へ寄せた。
「君が帰る時、もう少し一緒にいたいと言う。手を取りたいと思ったら、そう言う。他の男と出かけると聞けば、俺と出かけてほしいと頼む」
彼女は膝の上で指を握った。
「ずいぶん、欲張りなのね」
「これでも、全部ではない」
ミレイユは彼の顔を見て、笑うのをやめた。彼が冗談だけで言っているのでないと分かると、テーブルの幅が急に惜しくなった。
「今日は、手を取りたいと思ってくださらないの」
口に出したあと、彼女の方が驚いた。
オーウェンはすぐに立ち上がらず、彼女の目を見て頷いた。
「思っている。外を歩こうか」
喫茶室の庭には、小さな噴水と、その周りを一周できる砂利道があった。
ドリスが外套を持ってきてくれた。ミレイユはそれを着ると、手袋の指先を引いて外した。オーウェンも片方の手袋を外していた。
何も挟まずに手を取ることが、こんなに違うとは知らなかった。
彼の手は、彼女の手のひらを包むほど大きい。親指が指の付け根に触れ、少し位置を変えた。冷えた手に彼の温度が伝わってくる。
「冷たいな」
「緊張しているせいかもしれません」
「それを言われると、俺も困る」
彼が握り直した。ミレイユは、その力へ自分の指を返した。
歩き始めると、言葉は少なくなった。噴水の水音と、靴の下で砂利の鳴る音がした。庭の端まで行き、折り返す時も、彼の手は離れなかった。
「今日は、あなたを誘ってよかった」
ミレイユが言った。
「次は俺に誘わせてくれ」
「それで、わたくしの番は終わり?」
「終わらせるつもりはない。君からも、また誘ってほしい」
「考えておきます」
「そこは、すぐに頷いてくれてもいい」
彼女は笑い、庭の奥で足を止めた。背の高い植え込みの手前に、雨除けの小さな庇が出ている。ここなら風が弱かった。
オーウェンが彼女の頬に触れた。手を繋いでいない方の指で、耳の前の髪を少し整える。そのまま近づいた彼の顔を見上げ、ミレイユは自分から半歩寄った。
彼の唇が、頬へ短く触れた。
目を閉じる暇もなかった。離れた彼を見て、ミレイユは繋いだ手を引いた。
「もう帰る?」
「君の帰宅時刻まで、まだ少しある」
「それなら、もう一周したいわ」
彼は笑って、彼女の手を自分の腕へ引き寄せた。
「ゆっくり歩こう」
翌日の午後、母と出席した子爵夫人の茶会で、ミレイユはハロルドと顔を合わせた。
庭側の部屋へ入るところで呼び止められ、彼女は振り返った。ハロルドは花瓶の隣から離れ、昔と同じ距離まで近づこうとした。
「昨日は音楽会へ行ったそうだね」
「ええ」
「君のお母上に誘われたのかと思っていた。公爵とだったとは知らなかったよ」
「わたくしがお誘いしました」
彼の目が動いた。
「君が?」
「聴きたい演奏がありましたから」
「……僕も、あの曲は好きだったのに」
以前なら、次はご一緒しましょうと言ったかもしれない。ミレイユは茶会の奥にいる母を見た。夫人が彼女のために、席を一つ空けてくれている。
「そうでしたね。では、失礼いたします」
「ミレイユ」
ハロルドが呼び止めた。彼女がもう一度振り返ると、彼は少し笑おうとした。
「来週の展示会は、まだ予定を空けているだろう?」
「いいえ。別のお約束をしました」
オーウェンから今朝届いた手紙には、地図を売る店へ行かないかと書かれていた。父が別邸で借りた本の続きが、その店で見つかったらしい。彼には、彼女に見せたい川の絵もあるという。
ミレイユはその返事を、もう出していた。
「前から、話していたじゃないか」
「以前はそうでした。いまは違います」
彼女は礼をして、その場を離れた。茶会の女主人が新しい茶葉の説明を始めると、ミレイユは空いた席へ座り、香りを確かめた。
窓辺に差す光の色を見ながら、来週は何を着ようかと考えた。