「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第7話 その笑顔は、誰のもの



 青にするか、緑にするか。
 二着のドレスを寝台へ並べてから、ミレイユはもう三度も窓辺へ行き、戻ってきた。
 四月の光の下で見ると、緑の絹は黄みを増す。鏡の前では青のほうが顔を明るく見せた。けれどこのあいだ、別邸へ伺った日にも青を着ていた。
「緑になさいますか」
 ドリスが尋ねた。
「青がいいと思うの」
「では、青を」
「でも、いつも同じに見えないかしら」
 侍女は肩へ掛けていた青いドレスを、そっと持ち直した。
「違いにお気づきになる方だと思いますが」
「気づかせるために選んでいるのではないわ」
 言ってから、ミレイユは顔をしかめた。
「……少しは、そのつもりだけれど」
「では、ご覧になった時に、お嬢様がいちばん笑っていられるほうで」
 それなら、青だった。
 首元の飾りをひとつ減らしてもらい、髪には小さな真珠の留め具を挿す。腕へ手を添えられた時、袖のどこに彼の指が触れるだろう。そんなことまで考えていたと気づき、鏡の中の自分から目を逸らした。
 先日、自分から交際を望んだ。
 返事を聞いてからも、彼と別れた後は、きちんと言えただろうかと何度も思い返した。次の約束があるだけで、支度にこんなに時間が掛かる。
 階下では母が待っていた。
「今日は遅いお茶までには戻りましょうね。お父様に夕食の客があるから」
「ええ」
「わたくしが帰る時に、あなたも帰るのよ」
「分かっています、お母様」
 母はミレイユの顔を見て、口元を緩めた。
「念のためよ」

 王都のチェスター邸は、川沿いの別邸とはまるで違う顔をしていた。
 前庭には背の低い花が整然と並び、玄関の左右には磨かれた壺が置かれている。扉を入ると、広間の向こうから弦楽器の音が聞こえた。
 今日の昼会を取り仕切るのは、オーウェンの大叔母だった。冬のあいだ王都を離れていた彼女が戻り、親しい家々を招いたのだ。
 ミレイユも何度か会ったことがある。幼い頃に菓子をくれた人だが、今はその人の前へ、恋人として出ていこうとしている。
 考えた途端、背筋が伸びた。
「ロックウッド伯爵夫人、それにミレイユ。よく来てくださったわ」
 大叔母は玄関に近い小広間で客を迎えていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「まあ、きれいな青ね。春はこういう色を見ると嬉しくなるわ」
 ミレイユが礼を述べると、大叔母は母へ話しかけた。旅先で足を痛めた共通の知人についてである。ミレイユも二言ほど言葉を添え、それから人の集まる広間へ入った。
 オーウェンはすぐに見つかった。
 少し離れた窓辺で、年配の紳士の話を聞いている。濃い上着に白い襟がよく映え、手にはまだ何も持っていなかった。
 こちらを見た。
 彼の目元が変わり、ミレイユの胸が浮いた。
 けれど挨拶を交わす前に、紳士が何かを言い添えた。オーウェンは相手へ顔を戻し、短く応じる。今度は別の婦人が隣へ寄った。
 ミレイユは歩みを緩めた。
 公爵である彼を訪ねる人は多い。分かっている。ここへ来る途中も、母とそんな話をしていた。
 それなのに、呼びかけたい気持ちが行き場をなくした。
「先にお茶をいただきましょうか」
 母が小さく言った。
「ええ」
 給仕からカップを受け取り、知り合いの夫人へ挨拶する。その間にも、つい窓辺へ目が向いた。
 オーウェンは相手の話の途中へ言葉を重ねなかった。尋ねられたことだけを答え、通りすがりの客にも礼を失しない。領地で工事責任者の話を聞いていた時とも、二人で歩く時とも違う。
 自分の知らない時間を、彼はずっとこんなふうに過ごしていたのだ。
「お変わりになりましたね」
 隣で、知人の夫人が言った。
 ミレイユは反射的に背を正した。
「わたくしが、ですか」
「チェスター公爵です。以前はいかにも、お父上の代わりをしようとなさっていて。今はご自分でお話をなさるようになったわ」
「そう、なのですね」
「あなたは昔からお親しいから、かえってお気づきにならないかしら」
 気づかなかったとは言いたくなかった。
 けれど、気づいていたと答えるのも嘘だった。
 ミレイユはカップを口元へ運んだ。茶は思ったより熱く、ひと口を小さくした。
 窓辺の人の輪がほどけ、ようやく彼がこちらへ歩きだす。
 その時、大叔母が若い令嬢を連れて、彼を呼び止めた。
「オーウェン、こちらへ。さっきお話しした方よ」
 令嬢は栗色の髪を結い上げていた。ミレイユとそう変わらない年頃で、薄桃色のドレスがよく似合う。後ろには、その母らしい夫人がいた。
 大叔母の声は、ミレイユのいる場所まではっきり届いた。
「先月、南方から戻られたの。ずっとお目に掛かりたいと仰っていてね。あなたも、お話しする方がいれば少しは王都の暮らしが楽しくなるでしょう」
 オーウェンが礼をした。
 令嬢も応じ、何かを話す。
 彼が笑った。
 控えめな、相手を安心させる笑い方だった。
 ミレイユは、手の中のカップを見下ろした。
 彼がよその女性と話すところなど、今までにも見たことがある。ついひと月前なら、近くへ行って一緒に話したかもしれない。
 今日は、行けない。
 相手の方には何の落ち度もない。大叔母も、まだ自分たちの交際を知らないのだろう。
 それでも、彼女のために少し身を屈めるオーウェンを見ていると、胸の内側に落ち着かないものが溜まっていった。
 あの笑顔を、知っている。
 自分に向けられた時、嬉しかった。
 誰にでも同じ顔をするのだろうか。
「ミレイユ」
 母に呼ばれ、はっとした。
「カップを置いたら?」
 受け皿の上で、茶がわずかに揺れていた。
 ミレイユは近くの卓へ置いた。母を見たが、母は何も言わず、知人の夫人のほうへ向き直った。
 目の前で、オーウェンがこちらを捜すように顔を上げた。
 ミレイユは逃げずに彼を見た。
 そして自分から、歩いていった。

「お話し中に失礼いたします」
 挨拶をすると、大叔母が嬉しそうに場所を空けた。
「ちょうどよかったわ。こちらの方は、南の町のお話をしてくださっていたの。ミレイユもお聞きになったら」
「ぜひ。でも、その前に」
 声が少し硬くなり、ミレイユはゆっくり息を吸った。
 オーウェンを見た。
「少し、お隣にいてもいいかしら」
 彼は目を細めた。
「待っていた」
 差し出された腕へ、指を添えた。袖の布を通して、腕の確かさが伝わる。
 大叔母が二人を見比べた。
「……あら」
「きちんとお話しするのが遅くなりました」
 オーウェンは、今度は大叔母へ向き直った。
「ミレイユと交際しております。私が申し込み、彼女にも選んでもらえました」
 ミレイユは彼の横顔を見た。
 申し込んだのは、自分でもあった。そのことまで言いたくなったが、人前で競うのはおかしいと飲み込む。
 大叔母は扇を胸元へ寄せ、それから小さく笑った。
「それは、ちゃんと先に知らせてちょうだい。わたくしばかり、何も知らずに」
「申し訳ありません」
「謝ることではないわ。でも、よそさまに失礼をするところだったでしょう」
 薄桃色の令嬢が、ほっとしたような顔をした。
「そういうお話でしたら、わたくしも安心いたしました」
 母親にちらりと目を向けてから、少し困ったように笑う。
「今日は周りの方から、同じくらいのお年頃だからと何度も勧められておりましたので。公爵様まで、そのおつもりでいらしたら、どうお話ししようかと」
「私には、直前までそういうご趣旨だと分かりませんでした」
「では、わたくしたち二人とも、遅かったのですわね」
 令嬢の言い方が可笑しくて、ミレイユも笑ってしまった。
「わたくしは、たった今、急に進んでまいりました」
「拝見していましたわ」
 頬が熱くなった。
 けれど令嬢の瞳には、責める色がなかった。
「ロックウッド嬢は、外国へお出掛けになったことがおありですか」
「いいえ。まだないのです」
「でしたら、出発の前にぜひご相談くださいませ。旅の薦めよりも、持っていかなければよかったものをお教えできます」
「それは、とても役に立ちそうですわ」
 南の町で必要もなかった厚い外套と、現地の道に向かなかった靴の話になった。オーウェンが、自分も雨の中を革の靴で歩いて家令に小言を言われたと話し、大叔母が眉を上げる。
 話の輪は、すぐに別の客も交えたものになった。
 腕へ置いたミレイユの手は、そのままだった。
 そのうち、令嬢が離れる挨拶をした。
「よい午後を。お二人で」
 最後のひと言に、ミレイユは改めて顔を上げた。
「ありがとうございます。あなたも」
 相手を嫌いにならずに済んだことが、妙に嬉しかった。

 庭へ出るまでに、オーウェンは三度呼び止められた。
 二度目には、ミレイユのほうが先に挨拶を交わした。三度目には、まだ腕に触れているのが恥ずかしくなったが、放さなかった。
 石敷きの小道へ降りると、ようやく人の声が少し遠くなった。
 少し後ろを、ドリスが歩いてくる。広間の扉は開いていて、ここからでも大叔母の姿が見えた。
「ありがとう」
 オーウェンが言った。
「何が?」
「来てくれたこと」
「招待状をいただいたもの」
「さっき、俺の隣へ」
 ミレイユは足元の石を見た。
「お話の邪魔をしたでしょう」
「君に来てほしかった」
「お声を掛ければよかったのに」
「君のお母上にも挨拶をしてから、と思っていた。そこへ大叔母に捕まった」
 彼は少し笑った。
「失敗したな」
「大叔母様は、あなたのためをお考えだったのでしょう」
「そうだろうな。だから、今夜、もう少し詳しく話しておく」
「どこまで?」
「俺がどれだけ浮かれているかまで」
 ミレイユは顔を上げた。
 彼は平然としていたが、口元だけが少し緩んでいた。
「あなたは浮かれてなんかいなかったわ。大変落ち着いて、いろいろな方とお話ししていたもの」
「君におかしなところを見せまいとしていた」
「わたくしには、よそ行きのお顔に見えたわ」
「嫌だった?」
 ミレイユはすぐに答えなかった。
 小道の脇で、低い枝に薄紫の花が咲いている。まだ葉の少ない枝が、春の風に揺れていた。
「……少し」
 彼が立ち止まった。
 ミレイユも隣で止まり、彼の袖から手を離した。
「わたくしの知らなかった、あなたのお顔を見られたのは、嬉しかったの。皆様があなたを頼りにしていて、お話もよくお聞きになっていて。でも」
「でも?」
「ああいうふうに笑うのを、わたくしだけが知っているような気がしていたの」
 口にすると、自分でもずいぶん勝手だった。
「誰とでも笑ってはいけないという意味ではないわ。さっきの方も、とてもいい方だったし」
 オーウェンが口を開く前に、ミレイユは続けた。
「ただ、あなたに、あの方を見てほしくなかったのよ」
 言い終えてしまった。
 彼は数秒、黙っていた。
「……それを、今、ここで言うのはずるいな」
「あなたが聞いたのでしょう」
「聞いた。だから困っている」
「困るの?」
「今すぐ、君を抱きしめたくなる」
 ミレイユは後ろへ目をやった。
 ドリスは十分に距離を置き、花壇を見ていた。けれど広間からこちらはよく見える。人前で彼の腕を取ることと、抱きしめられることは、同じには思えなかった。
「ここでは、やめて」
「分かっている」
 即座に返ってきたので、かえって胸が苦しくなった。
「……後なら、いいのに」
 彼が目を見開いた。
 自分で言っておきながら、ミレイユは逃げたくなった。今度は彼のほうから、手を差し出された。
 ミレイユがそこへ手を重ねると、指先を包まれた。
「君にしか、言わないことがある」
 少し低い声だった。
「そんなふうに妬いてくれるなら、俺は喜んでしまう。君が嫌な思いをしたのに」
「だって、あなたは楽しそうだったもの」
「今のほうが、ずっと楽しい」
 彼は繋いだ手をわずかに持ち上げ、ミレイユの顔を覗き込んだ。
「俺に、君を見ていろと言って」
 鼓動が速くなった。
 ミレイユは彼の襟元を見た。白い襟の端が、上着の縁へわずかに潜り込んでいる。
 空いている手を伸ばし、そっと引き出した。
「動かないで。曲がっているわ」
「朝は、まっすぐだったはずだが」
「では、途中で曲がったのね」
 指を離せばいい。
 直し終えたのに、離したくなかった。
 彼の首元は近く、呼吸をすると上着の胸がかすかに動く。ミレイユはそこへ目を留めたまま、言った。
「今は、わたくしを見ていて」
 彼の手が、ミレイユの手を強く握った。
「さっきから、見ている」
 大切なことを聞かれた時より、返事の仕方が分からなかった。
 ミレイユはようやく襟から指を離し、代わりに彼の上着を軽く引いた。
「では、お茶を飲みに戻りましょう。あなたはまだ、何も召し上がっていないわ」
「それは、俺を見ていてくれたから分かった?」
「そうよ」
 彼が笑った。
 ミレイユはもう、目を逸らさなかった。

 広間へ戻ると、大叔母の用意した菓子が並んでいた。
 オーウェンは初めてカップを受け取り、ミレイユの隣の椅子へ座った。大叔母が会話の輪を作り、遠縁の家の婚礼の話をする。
「公爵家なら、お式もさぞ華やかになるでしょうね」
 客の一人が、何気なく言った。
 ミレイユは膝の上で指を曲げた。
 今までなら、家同士で決めることだと相槌を打っただろう。けれど今日は、すぐ隣にオーウェンがいる。
 彼が、菓子の皿をこちらへ少し寄せた。
「君は、どういう祝い方が好き?」
 声が小さかったので、その問いは二人だけのものになった。
「わたくしの話なの?」
「聞いてみたくなった」
 ミレイユは少し考えた。
「来てくださった方にも、ちゃんと嬉しい日なら。大勢でも、少なくても」
「君自身は?」
「わたくしも、楽しくなければ嫌だわ」
「それは外せないな」
 彼は真面目な顔で頷いた。
 まだ婚姻を約束したわけではない。先の話を急いで決める必要もない。
 それでも、彼が自分の隣で、自分の答えを聞いていることが嬉しかった。
 母が向かい側から、ミレイユを見ていた。
 目が合うと、母はカップを持ち上げた。何も言わないところが、いっそ気恥ずかしい。
 そろそろ帰る時刻だった。
 ミレイユが椅子を引くと、オーウェンも立ち上がった。
「玄関まで送る」
「ええ」
 人前でも、腕を借りることができた。
 馬車の前で母が先に乗り込むと、オーウェンがミレイユへ顔を寄せた。
「次は、もう少し二人で話したい」
「今日だって、ずいぶんお話ししたでしょう」
「足りなかった」
 彼の返事が早く、ミレイユは笑った。
「わたくしも」
 馬車へ足を掛ける前に、彼の手を一度握った。
 その手を放す時には、また会う日に着るドレスのことを考えていた。
 次こそ、迷わず緑を選べる気がした。
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