「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません

第8話 約束をしない夜



 別邸の玄関へ、いつもより大勢の人が出入りしていた。
 荷を下ろす馬車の脇を、泥のついた靴の男が急ぎ足で通っていく。玄関の内側では、家令が使用人へ外套を渡していた。
 四月も半ばになれば、川沿いの道をもっと気持ちよく歩けるだろう。
 そう思って来たミレイユは、馬車の窓から濡れた敷石を見た。
 王都を出た時は曇っているだけだった。道中の半ばから雨が落ち始め、今は細い雨が途切れず降っている。
 母が先に馬車を降りた。ミレイユも続き、差し掛けられた傘の下へ入る。
「お待ちしておりました」
 家令が迎えた。
「公爵様は、ただいま東の応接間に。すぐにこちらへ参ります」
「お忙しそうね」
 母が言うと、家令は一瞬ためらい、それから隠さず答えた。
「上流で雨が続いておりまして。橋そのものに問題が出たわけではございませんが、今夜は河岸の資材を移すことになりました」
「それでは、急がなければならないでしょう。わたくしたちなら、先に部屋へ」
「お越しいただいたのに、申し訳ありません」
 廊下の奥から、オーウェンが来た。
 上着の肩に雨の跡があり、袖口を一度折っていた。母へ挨拶をし、続いてミレイユを見る。
 彼女は、緑のドレスの裾を押さえた。
「こんにちは」
「ああ。来てくれて嬉しい」
 彼の顔がほころんだ。
 緑にしてよかったと、ミレイユは思った。
 それからすぐ、彼は家令へ顔を向けた。
「移動用の荷馬車は、何台来ている?」
「三台です。あと一台は、向こう岸の仕事が終わり次第」
「そちらを急がせなくていい。こちらで三台を回す」
 家令は頷き、静かに下がった。
「後でお茶でもと思っていたのだけれど」
 母が言った。
「お話を先に済ませていらして。わたくしたちは、あなたの家令に部屋へ案内していただくわ」
「ありがとうございます。ただ、今夜の食事について、先に相談をさせてください」
 オーウェンは母とミレイユを見た。
「七時には戻るつもりでしたが、何時になるか、今は分かりません。お二人の夕食は予定どおりに用意させます。明日の朝も、もし私が遅れましたら先にお召し上がりください」
 ミレイユは、彼の袖の湿ったところを見ていた。
 橋の脇には、まだ多くの木材が積まれていたはずだ。前の訪問で見たものより増えているのだろう。川開きまでには仕上げたいと言っていた人々の顔を思い出す。
「今夜、作業をなさるの?」
「水のそばの工事は止める。ただ、荷を高い場所へ移す手配をしないといけない。職人たちにも、今日のうちに話しておきたい」
「あなたがいらっしゃらなければ、決まらないことがあるのね」
「いくつかは」
 ミレイユは頷いた。
「わたくし、お母様と先に夕食をいただくわ。でも、九時半までに戻れたら、少しだけお茶をご一緒できる?」
 彼の目が、彼女へ戻った。
「それなら、そうしたい」
「九時半を過ぎたら、わたくしも眠っていると思って。明日の朝、続きを聞くわ」
「分かった。戻る前に使いを出す。難しくなったら、それも知らせる」
「ええ。お待ちしている間、ずっと時計を見るのは嫌なの」
 彼は短く頷き、それから小さく笑った。
「君と話す時間は、なくしたくない」
「わたくしも」
 母が二人の間を見ていた。
 ミレイユは少し頬を熱くしたが、言い直さなかった。

 部屋には小さな火が入っていた。
 荷を解いてもらいながら窓辺へ寄ると、木々の向こうに川が見えた。空と同じ色をしていて、水面の動きはここからでは分かりにくい。
 ミレイユは窓を開けずに離れた。
 母は隣の居間で、持ってきた本を広げていた。
「お母様は、夕食まで何をなさるの?」
「読書をしようと思ったけれど、文字が少し細かかったわ。王都の家に、もう少し見やすい本を置いてきてしまったのね」
「わたくしが読みましょうか」
「あなたが退屈ならお願いするけれど、退屈なの?」
 ミレイユは考えた。
「退屈ではないわ。でも、何をしたらよいか、少し迷っているの」
 庭を歩くつもりだった。オーウェンと、一緒に。
 急に空いた午後を、一人でどう使うか。王都なら用事はいくつも思いつくのに、彼の家では、彼に招かれた客のままで立ち尽くしてしまう。
 母は本を閉じた。
「では、わたくしと少し探検しない?」
「探検?」
「前に来た時、二階の奥まで見ていないでしょう。客が入ってよい部屋を、家令に教えていただきましょうよ。あなたは今にも、玄関へ彼を見に行きそうだもの」
「そんなことは、しません」
「なら、なおさら一緒に来てちょうだい」
 母は悪戯っぽく手を差し出した。
 ミレイユはその手を取り、立ち上がらせた。
 廊下の先には、午後の光を取り込む小さな部屋があった。壁には植物の絵が掛けられ、長椅子の布が擦り切れかけている。
 家令によると、以前は夏に鉢物を置いていたという。今は、誰かが落ち着いて本を読む時に使うそうだ。
 ミレイユは窓辺の椅子へ腰を下ろした。
「ここ、いいわね」
「あなたはどの家へ行っても、最初に窓を捜すわね」
「暗いと眠くなってしまうもの」
「そうだったかしら。子供の頃は、明るくてもよく眠っていたわよ」
「お母様」
 ドリスが、後ろで小さく笑った。
 持ってきた本を、今度はミレイユが開いた。
 半頁も読まないうちに、母から横槍が入った。
「この主人公は、なぜ今、相手の話を聞かないの?」
「聞いたら、物語が終わってしまうからではないかしら」
「困った方ねえ」
 ミレイユは続きを読んだ。話の登場人物について、母と意見が違う。ドリスにまで判断を求めて、困らせた。
 気づくと、夕食前の身支度をする時刻になっていた。

 食堂の卓は、二人で使うには広かった。
 母が使用人へ、離れた両端ではなく並びの席を使いたいと頼んだので、ミレイユもその隣へ座った。
 皿が運ばれてくる。焼いた魚に、細く切った香草が添えられていた。
「美味しい」
 ミレイユが言うと、母も頷いた。
「あなたは、あの本の相手役が気に入ったの?」
「少なくとも、怒っている理由をちゃんと言ったところは」
「あら、わたくしは言い方がひどいと思ったわ」
 また意見が分かれ、食事のあいだも話が続いた。
 時計の針を見たのは、給仕が果物を置いてからだった。
 八時より少し前。
 まだ彼からの知らせは来ていなかった。
 食事を終えて食堂を出ると、廊下で家令に呼び止められた。
「公爵様より、お伝えするようにと。八時半には現場を出られる見込みとのことです。別邸へは九時頃に」
「そう。お食事は?」
「向こうで召し上がる時間は、取れなかったようです」
 ミレイユは、母を見た。
 母は娘の顔を見て、頷いた。
「わたくしは先に休むわね。あなたも、あまり遅くならないように」
「ええ。おやすみなさい」
 母の頬へキスをしてから、ミレイユは家令へ向き直った。
「何か、温かいものをお願いできるかしら。簡単なもので。わたくしも一緒にいただけるように」
「かしこまりました。厨房へ申しつけます」
「お茶のお部屋でよい? 彼が食堂へ一人で座るのは、何だかもったいないわ」
 家令の目元に、笑い皺が寄った。
「公爵様も、そのほうをお喜びになるかと」
 ミレイユは急に照れ、何か手伝いをと口にしそうになった。
 けれど、厨房にはもう働いている人たちがいる。知らない手順へ入って、困らせる必要はなかった。
 代わりに、居間の卓の上を片づけ、母が残した本を隣の小卓へ移した。ドリスに手を借りて椅子を寄せてもらい、自分は窓際の灯りを卓へ近づけた。
 オーウェンの好きな席はどこだろう。
 考えてから、来たら本人に聞けばよいのだと思った。

 九時を少し過ぎて、廊下から声がした。
 ミレイユが居間の入口へ行くと、オーウェンが外套を脱いでいた。肩から落ちた雨粒を、使用人が布で拭う。
 昼よりも髪が乱れていた。
「お帰りなさい」
 ミレイユは言った。
 彼が顔を上げた。
 一瞬、足が止まったように見えた。
「……ただいま」
「間に合ったわね」
「ああ」
 彼が近づいてくる。ミレイユは、その袖を見た。
「先に着替える?」
「そうしたい。十数分、待ってくれるか」
「お湯をいただいてくるといいわ。わたくしも、お茶を淹れていただくから」
「君が眠くなる前に戻る」
 今度は、それを約束できる顔だった。
 ミレイユは笑って頷いた。

 着替えた彼が居間へ入ると、使用人が夜食を運んできた。
 野菜のスープと、薄く切ったパン。冷たい肉も少し添えてある。
 オーウェンは卓を見てから、ミレイユを見た。
「君は夕食を?」
「お母様といただいたわ。とても美味しかった。でも、あなたのお皿を眺めているだけではつまらないから、スープだけお付き合いするの」
「それなら、半分でいいのか?」
「半分は嫌よ。小さな器に、ちゃんと一人前」
「分かった」
 彼は笑い、彼女の向かいへ座った。
「ここでよかった?」
「とても」
 給仕が下がり、ドリスは暖炉に近い椅子で縫い物を始めた。
 オーウェンがスプーンを取る。ひと口飲み、長く息をついた。
 ミレイユは、自分も温かなスープを口へ運んだ。空腹ではなかったのに、少しずつ食べられる。
「荷物は、移せたの?」
「ああ。明日の仕事をどうするかも話した。水が引くまでは、河岸での作業を休む」
「皆様、お困りになるでしょうね」
「日ごとの賃金で来ている者もいるからな。休みのあいだは、資材を置いた倉の修繕に回ってもらう。希望する者に限るが」
「それなら、また忙しくなるのではなくて?」
「仕事を決めるまでは。後は、責任者に任せる」
 ミレイユが顔を上げると、彼はパンをひと切れ取り、苦笑した。
「俺が槌を握っても、邪魔になるだけだ」
「あなたが何もかもできるとは、思っていません」
「ほっとした」
「でも、今夜、ご自分でお話ししにいらしたのは、よかったと思うわ」
「待たせる話ほど、人に任せにくい」
 彼は食事を続けた。
 彼の斜め隣には、空いた椅子があった。そこへ移りたかったが、彼はまだ食事の最中だった。
「君は、今日どうしていた?」
「お母様と本を読んだの。あの方、恋の物語にはずいぶん手厳しいのよ」
「伯爵に教えておいたほうがいいか?」
「お父様はご存じだと思う。主人公がなぜ相手の話を聞かないのかと仰るから、聞くと本が短くなるのではと申し上げたわ」
 彼が笑った。
「君らしい」
「あなたまで、あの人たちの肩を持つつもり?」
「今のところ、君のお母上に賛成だ」
「まだ読んでもいないのに」
「話は、聞いたほうがいい」
 ミレイユはスプーンを置いた。
「では、聞くわ。あなたは、今日どんな気分だった?」
 彼も手を止めた。
 仕事の結果を報告する時にはなかったためらいが、その目に浮かんだ。
「……川開きを、予定どおりに開けないかもしれないと思った」
「そうなったら、残念ね」
「ああ。それでも、川開きには必ず間に合わせると、言いたくなかった」
 オーウェンはスープの器へ目を落とした。
「父が亡くなった直後、何でも早く片づけようとしていた。支払いを待たせていた相手に、明日には必ずと言ったことがある。すぐに金を出せると思ったんだ。ところが、確かめるべきものが一つ残っていた」
「その方は、困ったのね」
「俺の言葉で、先の支払いを約束してしまっていた」
 彼は顔を上げた。
「結局は払った。それで全部済んだと、あの時は思いたかった。でも、期日を変えるのも、金を借りて繋ぐのも、相手の仕事になった。俺が急いで安心させた分だけ」
 ミレイユは黙って聞いた。
 彼が父を亡くした時の悲しさを、今さら聞きだすつもりはなかった。目の前の彼が、今日も少し怖かったと話している。
「だから、君との夕食にも、帰る時刻を約束できなかった」
「わたくしは、今こうして一緒にいられるのが嬉しいわ」
「俺も」
「でも、夕食も楽しみにしていたのよ」
 彼が頷いた。
「そうだな」
 すぐに慰められなかったことが、嬉しかった。
 ミレイユは椅子から立ち、自分の器を持って、彼の斜め隣へ移った。
「だから、明日の朝は、できればご一緒したい」
「起きたら、まず君たちの部屋へ知らせる」
「それでいいわ。今夜は、こちらを向いていて」
 彼が食事を終え、スプーンを置いた。
「向いている」
「そうね」
 ミレイユは少し笑った。
 彼の手が、卓の下から差し出された。
 指を重ねると、温かかった。昼間、濡れた袖を見て触れたくなった時から、ずっとこの手を握りたかったのだ。
「会いたかったわ」
 言うと、オーウェンの指がゆっくり絡んだ。
「俺も。君を玄関で見たまま出ていくのは、惜しかった」
「帰ってきたでしょう」
「ああ。お帰りと言ってもらえるとは思わなかった」
 ミレイユは、自分の言葉を思い出した。
 客として招かれた家で、ずいぶん自然に言ってしまった。
「迷惑だった?」
「もう一度、聞きたい」
 まっすぐな返事に、ミレイユは目を伏せた。
「一晩に、何度もは言わないわ」
「では、次に帰った時に」
 その話を続けるには、彼があまりにも近かった。
 ミレイユはそっと立ち上がった。彼も、繋いだ手を離さずに立つ。
「少しだけ」
 何を、と尋ねられる前に、彼の胸へ身を寄せた。
 背へ腕が回った。しっかりと抱き止められ、頬が彼の上着に触れる。
 ミレイユは目を閉じた。
 暖炉のそばで、ドリスが糸を切る音がした。
「……明日の朝、寝坊はしないでね」
「難しい注文だな。君を抱きしめた後で、すぐ眠れるかどうか」
「では、わたくしから先に眠るわ」
 彼の胸が、笑いで少し動いた。
 腕を緩められても、ミレイユはすぐには離れなかった。
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