青い空の下で
とても懐かしい店構えが眼に入った。
一瞬であの頃に戻れる雰囲気がそこにはあった。
もう記憶の奥底にしまいこんでいたのに。
私は躊躇しながらも,重厚なドアを押した。


すぐに私の鼻腔を大好きな香りが刺激した。
マスターの吸う葉タバコの香りだった。

壁一面のレコードと年季の入ったグランドピアノ。
そしてベースやアンプ。
数席のテーブル席と10人限定のカウンター席。
眼を閉じると,そこでのライブが次から次へ
思い出された。

「なんか懐かしい奴が帰ってきたな。今夜は嵐か。」

いつもと変わらない口調で,カウンターから出てきたマスターが
表情を崩しながら近づいてくると,私を抱きしめた。
その腕のぬくもりと安心感に,
私は今まで我慢してきた涙が次から次へと溢れてきて,
声をあげて,マスターの胸の中で泣き続けた。

二度も真人をあきらめなければならない,
真人を失った喪失感で私はいっぱいになって,
理性で抑えていた真人への思いでいっぱいになって,
もうどうしようもなかった。
自分の中の気持ちを整理するには,
まだたくさんの時間が必要だと思いながら。涙が止まらなかった。


どれくらい泣いただろう。マスターはその間中,何も言わず聞かずに
私を腕の中で包み込むと,子どもをあやすように何度も背をさすってくれた。


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