君と、○○のない物語
「君が目覚めてからもたまに院内で見かけるよ。てっきり知り合いだと思っていたんだけど。」

朔太郎が目覚めたまさにそのとき病室に来た、あの女の子の事だろうか。

あれ以来姿を見ていないし、やはり病室を間違えたのだろうと思っていたのだが。

「…まあ、見間違いだったのかもね。それじゃ今日はこの辺で。」

医師は曖昧に笑って病室を去った。

急に静まった病室に、何やら改めて寂しさを感じる。



『金魚はね、嫌なこと食べてくれるの』

―…ああ、またこの間の声が、脳裏に響いて朔太郎の脳を揺らしてる。

前とは違うこと言ってる。何の話?

『兄ちゃんのお伽噺好きだった。なのにいなくなっちゃった。消えちゃった。』

…本当に何の話ですか。

『なんでなんでって、ずっと思ってた。』


朔太郎の脳裏に、ふと思い浮かばれる誰かの姿。

田舎の道の真ん中で、空き地で、学校で笑う、黒い髪の女の子。


―…病室にきた、あの子だ。

まだ病室で一階鉢合わせた程度なのに、朔太郎の頭の中では田舎の真ん中にいる。

いつ、何処の光景だ?

…いや、知らないよ、記憶にない。



便所でも行こう。と、ベットから降りて扉に向かう。

取っ手に手をかけ開いた、その時。

「あ。」

「…あ、」

まるで病室を覗きこもうとしていたかのような姿勢で、ドアの真ん前にその女の子は立っていたのだ。

彼女の揃った前髪の下で、髪同様に黒い瞳が泳いでいる。

「…ご、ごめんなさっ」

「ちょ、まっ!」

また逃げようとした彼女を、反射的に呼び止めて捕まえた。

ただでさえ今さっき妙なものを思い浮かべていて、その本人に監視みたいな事されて見す見す黙ってはいられない。
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