愛ノアイサツ
「どうしよう・・・届けにきただけなのに・・・。」

独り大ホールに連れてこられなんとなしに周囲を見渡した。とても広いホールは人で埋め尽くされていた。空いている席なんて見当たらない。観客たちは連れと談笑したり入り口で配られたチラシに目を通している。

ブーーーーーーー

突然大きな開演の音が鳴り、私は外に出ようとドアを開けようとしたがそばで座っていた女性の観客にジロリと睨まれ、仕方なしにチケットの指す席についた。

どうしよう・・・一番前だ。コンサートなんて始めてなのに。

ついた席はあろうことに最前列の中央。隣を見ると高そうなスーツに身を包んだ初老の男性に、フワフワとしたファーを首に巻いたこれまた高貴な老女。人目でわかる自分との違いに今ここにいることがひどく場違いな気がしてぎゅっと肩をすくめた。

ただ黙って下をうつむいていると突然激しい拍手がホールに響き渡った。

驚いて顔を上げると、ステージの裾から背の高い男の人がヴァイオリンを手に流れるようにステージ中央、私の目の前にやってきた。

下から見上げたその姿はより一層その男の人を長身に見せていた。茶色の髪はステージの照明をキラキラと反射している。年季の入ったヴァイオリンはそれでもその歳月を感じさせないほどよく磨かれにぎられた手の中で輝いていた。

優しそうな瞳はゆっくりとホール全体を見渡し、流れるような動きで一礼した。まだ何も演奏していないのに、この男の人が出てきただけでホール全体の空気が変わった。観客の息を呑む音が聞こえてきそうな不思議な緊張感。私も、気づけば目の前のこの男の人の一挙一動に釘付けになっていた。


ヴァイオリンを首にかけ右手に持った弓を弦の上に置く。
そして、始めの一音がホールに響き渡った。


ホール全体に響く澄んだ音。流れるようなリズム。豊かなヴィブラート。

こんなの初めて・・・・・

昔からよくクラシックは聴いているけど、こんな演奏を聴くのは初めてだった。技術も音感もすごい。でも、それ以上に聴き手を惹きつける何かがこのホール全体を包んでいた。


私は本来ここに来た目的もすっかり忘れてこの男の人の演奏に聴き入っていた。
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