短編集『固茹玉子』
「世の中とは何と虚しく、儚い物なのだろう」という俺の嘆息をよそに掛けられる声、

「どうも有り難うございました」

 すごすごと店を後にする背中に刺さる、この世のどんな名工も作れない、最上級の鈴を転がしたような美しいその声音を最後に、ガラスで出来た張り紙だらけの扉は僅かな作動音を漏らして閉ざされた。

 これからあの子は俺の性的嗜好を、異性には勿論同性の友達にも言った事が無いこの性癖を、返却する棚を確認しながら且つ1枚ずつ収納する事に依って、確実に認識するに違いない。

 さっきのアクシデントで長時間に渡って曝された俺の顔は覚えられ、その認識は『日曜に来る名作比率10%のAVマニア』から『レイプ物とSM物しか借りない女の敵』という最も有り難く無い物へと成り下がったに違いないのだ。

 考えうる一番最悪な展開となってしまった事に落胆した俺は、一刻も早く家に戻り煎餅布団にくるまって『ふて寝』でもしてしまいたかった。

 しかし現実はそう甘く無い。潰れた紙風船のように萎縮した俺の自尊心を司る脳は、癒しの為に必要な休息も与えられないまま、財布が無い事で今後の予定にどんな支障を来すのかを考えなければならない。

 結論として導き出された答えは『財布が無ければ夕食にもあり付けない』だった。

 安普請のボロアパートにはお似合いの古びた小さいワンドア冷蔵庫には、干からびたスライスチーズの欠片さえ入っていないことが昨日の時点で確認済みだったからだ。


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