かえりみち
「彼のチェロ。鳥肌が立つほど素晴らしかったですよ。きっとこの初演は、伝説になるでしょうね」
日本を代表するオーケストラ、東都フィルハーモニックと、日本を代表する指揮者、この私。
そして日本を代表するチェリスト、島田幸一の代役という肩書き。
うん、伝説にふさわしい材料が、この舞台に全て揃っている。
「ただ・・・」
「ただ?」
本番で弾ければ、の話だけど。
島田幸一も、温厚な顔してとんでもない大博打を打ったもんだ。
指揮者・井上は、ステージの卓也をちらりと見る。
死んだように、チェロにもたれて動かない卓也。
「彼は恐怖症を克服できたわけではない。今の彼は、すさまじい気力だけで無理矢理弾いているんです。それで体が持つかどうか…」
こんなことを続けていたら、心か体のどちらかが、あるいはどちらも壊れてしまうだろう。
本番は来週だ。
それまで持てばいいのだが。