アリスズ

 日本に帰りたい?

 景子は、半ば茫然としていた。

 考えたことが、ないと言えば嘘になる。

 しかし、そこまで切実に、本気で願ったことはなかったのだ。

 よく考えてみれば。

 梅や菊からも、帰りたいという言葉を聞いたことがなかった。

 親や祖母は、元気にしているだろうか。

 祖母ならきっと、『景子は神隠しにあったに違いない』とか言っているだろう。

 父母については、不思議な能力の話さえしなければ、問題のない親子関係だった、と言えばいいか。

 それらを、全部まとめて要約すると。

「ここでやることがなくなったら…考えてみるかも、くらいですね」

 あはは。

 日本を愛しているかと聞かれたら、愛していると答えるだろう。

 だが、その国の中にいなくとも、景子は日本人だし──何ら問題がないように思えたのだ。

「ここでやることがなくなったら、か…では、何をする気かね?」

 ザルシェは、肩をそびやかしながら聞いてくる。

 答えが曖昧すぎたのだろうか。

「そうですね…とりあえず…農業を技術にしましょうか」

 景子は、空を見上げた。

 雲が一気に出てきている。

 スコールでも、来るのかもしれない。

「農業を…技術に?」

 聞きなれない言葉の組み合わせにか、イデアメリトスの長は首をひねった。

「国中の農家の慣習や、農業の言い伝えをまとめて、それを試験し、本当に効果のあるものだけをまとめて本にする。出来た本を、農村に配る…技術の一歩になりませんか?」

 前々から考えていたことを、景子は言葉にしてみた。

 いわゆる、ノウハウ本の作成だ。

 彼女の、外部の知識も役立つことはあるだろうが、まずはこの国が昔から持っている知識の集積が大事だと、そう思ったのである。

「ふむ…面白いことを考えるな」

 ザルシェは、小さく唸った。

 だが、それを行うには、景子には問題があることに今日気づいたのだ。

「えと…まずは、読み書きをおぼえないと…いけないんですが」

 あはは、と彼女が笑うと。

「そこからか!」

 イデアメリトスの長に、ツッコミを入れてもらえる日がくるとは、思ってもいなかった。
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