アリスズ

 質素な庵だった。

 峠の大岩の影に、隠されるようにそれはある。

 中に入っても、灯り一つともさず、鬼は脚の欠けた椅子に腰かける。

 安定の悪いそれを、まったく気にする様子はなく、その身はぴたりと静止する。

 菊に勧める椅子はない。

 彼女は、おそらく床に使っているであろう長い板の上に腰かける。

「名は?」

 静かな静かな夜の中。

 菊は、鬼に訪ねた。

「トー」

 鬼の名は──短かった。

 その視線が、彼女を見る。

「菊…」

 そして、菊もまた自分の短い名を答えるのだ。

「世を捨てたのか?」

 アルテンに、言葉を習っていてよかったと、彼女はその時初めて思った。

 こんなところに、隠遁しているべき器ではないように思えた。

「捨てねば、乱れる世もあるのだ」

 空を、見上げる仕草。

 いまの夜空にかかっているのは、月だというのに。

「あぁ…だが、世を捨てたところで、必ずしも乱れないわけではないがな」

 我知らず、含みを持たせる言葉を吐いていた。

 詳しく理解しているわけではないが、うっすらと何か本質のようなものが、この男の向こうに見えたのだ。

「偽物の乱れなど、長くは続かぬ…いずれ、卑しくなり、小さくなって消える」

 自分が消えることを、この男は待っているかのように思えた。

 そう年を経ていない姿をしているというのに、老人のような枯れさえ感じる。

「……太陽は、嫌いか?」

 そんな男に。

 今度は、菊が問いかけた。

 男は、微かに笑った。

「太陽も月も…どちらもあるがまま、だったか?」

 彼女の言葉を、そのまま彼は揶揄するように使う。

 それを。

 この男が口にした、という事実に、菊は意味を覚えた。
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