アリスズ

 相手の目的は、その場で危害を加えることではなく、連れ去ること。

 シェローの事件で、それは明らかだった。

 そのおかげか、相手が出したのは短剣のみ。

 しかも、その短剣をいきなり突き出してくるのではなく、まずは羽交い絞めようとぶっとい腕を伸ばしてくる。

 その腕を逃れるために、一度すっと身をかがめた後、肘で胸を打ち据える。

 息が出来なくなったところへ、掌底で下から顎を突き上げた。

 脳をぐらぐらに揺らされては、たまらないだろう。

 身体の均衡を保つことも出来ずに、どさっと男の身体が倒れ伏す。

 ひとーつ。

 ふぅっと息を整えた次の瞬間。

 短剣が付き出されてくる。

 その手首を捕え、一気にひねった。

 鈍い音と共に、絶叫が暗闇に響き渡る。

 手首が、ちょっと変な方向に曲がったが、命に別条はないだろう。

 ふたーつ。

 菊が振り返った時にはもう、その身は闇にまぎれて逃げようとしていた。

 逃げ足の速い。

 あっさりと、彼女が諦めかけた時。

「───!」

 声なき悲鳴が、向こう側から上がった。

 どさっと崩れる身体。

 ずるずると何かを引きずる音が、菊の方へと近づいてくる。

 ああ。

 何だ。

 菊は、遠目ですぐ分かった。

「久しぶり…トー。戻って来たんだな」

 白い髪は、闇の中でもすぐに浮かび上がるからだ。

 だが、トーは。

 しばらく、まじまじと菊を眺め続けた。

 気絶した男を、引きずって近づきながら。

 その大きな手が、菊に伸びる。

 ぐいっ。

 長い髪を引っ張られたら、カツラが思い切りずれた。

「ああ…なるほど」

 トーは、納得したように、自分が掴んだものを見つめるのだ。

 菊の姿が、不思議だったのだろう。

 その様が、余りにとぼけていたので。

「相変わらずだな…あはははは」

 菊は、カツラをずらしたマヌケな頭のまま、大笑いしたのだった。
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