アリスズ

 晩餐時。

 梅は、夫人と晩餐室へと向かった。

 テイタッドレック卿、その奥方──そしてボンボン。

 奥方の着物への好奇のまなざしに、愛想よく微笑みながら、梅はもうひとつの視線を軽やかにスルーした。

 ボンボンだ。

 名前は、さっき聞かされた。

 アルテンリュミッテリオ。

 確かにウメと比べたら、お長いお名前ですこと。

 どうにも、さっき彼女に袖にされたことを根に持っているようだ。

 エンチェルクにも、気をつけるように言われている。

 使用人を、よく泣かす男らしい。

 意地もよろしくないし、女癖もよろしくないという素晴らしい風評だ。

 そんな晩餐が終わった後。

 応接室に場所を移して、演奏会となる。

 梅は、竪琴を持ってきたエンチェルクから受け取った。

「ウメは、不思議な音楽を弾けるのよ」

 イエンタラスー夫人の大げさな表現に苦笑しつつ、椅子に座り、そして膝の上に小さな竪琴を乗せる。

 ゆるやかに、ゆるやかに。

 『さくらさくら』、『荒城の月』、『ふるさと』、『花』。

 目を閉じて奏でると、自分の知る限り美しい日本が瞼の裏によみがえる。

 近代化してしまってはいるが、東京の下町に、京都や奈良に、そして数多くの田舎に、その景色は存在するのだ。

 愛すべき自分の祖国を思いながら、梅は竪琴をつま弾いた。

 最後の一音を奏で、音が完全に空間から消えうせると、ゆっくりと梅は目を開く。

「ああ…なんて切ない音なのかしら」

 奥方は、目頭をハンカチで押さえていた。

 夫人の目も、うっすらと潤んでいる。

 テイタッドレック卿は、なにか思い返すようにうむと頷き。

 アルテン坊ちゃんは──ほけーっと魂が抜けたように、梅を見ていた。

「お粗末様でございました」

 卿と奥方を見て、謝意を表す。

 そして、もう一人。

 扉の側に控えていたエンチェルクも、魂が抜けかかっているようだった。
< 64 / 511 >

この作品をシェア

pagetop