アリスズ

「ただ一人のご子息です…他に二人お嬢様がおられますが、どちらもお輿入れなさいました」

 エンチェルクの説明を、梅は身体を休めながら聞いていた。

 ということは、彼が次代のテイタッドレック卿になるのか。

「ところで…あなたは、この辺の生まれではないのよね?」

 ボンボンの話は、それくらいにして。

 梅は、エンチェルク自身の話へと切り替えた。

 彼女は、またぎょっとした顔をする。

「は、はい…もっと南の…都よりもうちょっと南の町の生まれです」

 あわてふためきながら答える言葉を、梅は一粒ずつ拾っていった。

 ここより南に都があって、それよりももう少し南。

 梅はまだ、この世界全体の地図を見たことがなかった。

 広い範囲で行商をしている者か、まつりごとに関わる人でなければ、そんなに大きな地図はいらないのだ。

 日本にいたころだって、本当の意味で世界地図など必要なかったではないか。

 しかし、見えないとなると見たくなるのが性分である。

 テイタッドレック卿の屋敷の話をした時、夫人がこう言ったのだ。

『卿のお屋敷には、立派な図書室がありますよ』

 発音に比べ、筆記にはまだ自信がない。

 それでも、図書室への興味は尽きなかった。

「この屋敷に、本がたくさん置いてある部屋が、あると聞いたのだけれど…」

 エンチェルクに問いかける。

 彼女自身の話も、もっともっと聞きたくはあったが、梅の興味はゆっくりとそちらへスライドしていったのだ。

「はい、あるようです…貴重なものばかりらしく、私は入れませんが」

 あらら。

 誰も彼も、自由に出入りできる部屋とは違うらしい。

 となると。

 卿自身の許可が、必要になるだろう。

 もしくは──あのウィスキーボンボンに頼むか。

 どう切り出そうかしら。

 梅は、エンチェルクの頭の上の方を眺めながら、思案をめぐらせたのだった。
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