たとえばあなたが



こんな汚い社会に染まりたくない、と松田は思った。

部長の懇願を受け入れて職を失い、結婚直前の礼子を不安にさせるわけにはいかなかった。

いや、それ以前に、退職してしまえば結婚の話すらなかったことにされてしまうかもしれないのだ。



「婚約者のお兄さん、刑事なんです」

松田の頭に、恰幅のいい礼子の兄の姿が浮かんだ。

「退職の理由を聞かれたら、今日のこと黙ってる自信ないですから」

松田が刑事に真実を話せば、全社を挙げての濡れ衣計画が台無しになる恐れがある。

そういう脅しをかけてでも、木村に思い直してもらいたい。

松田はそう願った。



ところが、松田の思いは木村に届くことはなかった。

「…諦めてくれ、松田…!」

それは、腹の底から押し出すような声だった。

姿勢を正したまま、じっと松田を見据える木村の目に、哀しさと覚悟が見えた。



もう、涙目ではなかった。




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