異常人 T橋和則物語
 部屋のまん中で、和則は架空のピッチにたち、架空の敵を突破して、ドリブルでゴールに向かっているところだった。この場面から完全に遊離し、自分を守ってくれる架空の世界に逃げ込んでいた。それはセロンの煙草にも似てなくもないが、和則の場合は必死だった。とにかく、架空の世界に逃避しなければ、和則は爆発してしまうのだ。精神的に。その顔は猛々しく恍惚だった。
「ペレがパス、そしてジーコ」和則は呟いた。「ロナウド、トッティ、ベッカム…とパスをつなぐ。そして…」言葉にあわせて、和則は動作するのだが、そのふたつは噛み合わず、動作は間が抜けている。ペレ、ジーコ、ベッカム…夢のドリーム・チームだ。架空のパスがやってくる。和則は足踏みをして、「そして、和則へ。……ゴール!」と呟いてにやりと笑った。「ゴール!ゴールです!和則、やりました!」
 セロンは立ったまま魚田みすずこと和則を見守り、和則が自分にはついていけない世界にいることを悟った。
「ゴール!ゴールです!和則、やりました!二対〇………日本勝ちました!」
「へん!」セロンは鼻をならした。「ペレ、ジーコ、ベッカム…?馬鹿が」
 しかし、和則は勝利のポーズをとり、自分だけの世界にひたっていた。
 で、セロンは途方にくれた。
(……いったいどうやって、この人物を救えばいいんだ?)頭痛のする思いであった。


  東京にながくいるつもりはなかった。いや、この地上にながくいるつもりはなかった。早めに、一日でも一秒でも早く神様に認められて、天使業に戻る。こんな金のかかる地上なんかより、天国のほうがずっとよい。ハッピーになれる。恋人のミッシェルのことも気掛かりだし、和則の発作は続くで、いいことない。早く神様よ!認めてくれ!悲惨な男を救えといったから和則を救ったのに……まだダメだなんてあんまりだ!
 
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