多幸症―EUPHORIA―
 それにひきかえぼくは――、

 脆弱さや狡猾さで出来た醜い中身を隠して、表面ばかりを必死で取繕った只の偽善者だ。愛想笑いと自分を守る術ばかりを上達させて、逃げてばかりだ。
 ただ、劣った部分を知られたくないという激しい羞恥心と、欺かなければ愛される筈ないという思い込みと。それがぼくをこれまで突き動かしてきたのだ。

 無意識の内に。

 あの少年は幼い頃のぼくだったのかもしれない。そんな下らない妄想を繰り広げる。偽りの演技をしている一方で、その様な自分から逃避したい余りに、幼い自分まで出現させてしまったのだ。

 なんて馬鹿げた妄想だ。

 けれど――、
 あの純粋すぎるひとみには一体、このぼくはどう映っただろう。

 嗚呼。
 本当はもう、あの少年の日に帰りたいんだ。
 何もかも拾い出して、忘れていたあの頃の気持ちを掬い出したい。
 たとえ、二度と今までのような鋭い演技が出来なくとも、名声を失ったとしても。

 もし願いが叶うなら、ぼくは迷わずそれを願うだろう。もう遅いのだろうか。いや、分かっている。帰りたいと思えば帰れることは。
 そう決心さえすれば良かった。

 ぼくはただ、いつしか問題をすりかえていたのだ。事態は自分の力ではもはや揺るがすことが出来ない深刻なものだと、心の何処かで願っていたのかも知れない。

 ――仕方なかったんだ。

 そう、ぼくは卑怯にも自分の臆病さを正当化したのだ。
 すべてはぼくの心の弱さが招いたことだ。
 このことを理解したぼくからはもう、以前の様な名声も歓声も次第に消えてゆくのだろう。

 けれど、もうそんな腐った感情は棄てなくてはいけない。
 これから、心を喪って歪めていた時間を取り戻してゆく為に。


 ぼくは顔を上げると、いつか遠い日に無邪気に友達に笑いかけたように、森野に優しい笑顔を向けた。
『帰ろうか』
 森野は黙って頷いた。


 ぼくらが海を立ち去るころには、足音もぼくらの残像も、ぼくらの声もすっかり波に消えていた――。



(多幸症―EUPHORIA―橘亜草の場合/了)
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