愚者
「勘定だ」
「800円に成ります」
 私が金額を示すのと同時に、男が懐から黒い手帳を取り出して突き出して来る。
「捜査四課の富田重明だ」
「捜査四課?」
「ヤクザ専門だ」
「私はヤクザじゃ無いですよ」
 心臓が早鐘を打つ。時効は過ぎた筈だ。だが、現実に眼の前に刑事が居る。頭の中が混乱する。逃亡。白を切る。あらゆる可能性を瞬間的に考えて身構える。
「どうした?」
「いえ」
「別にお前さんを捕まえに来た訳じゃないんだ。それとも、脛に瑕でもあるのか?」
 全てを見透かす様な視線。薄気味悪いとしか云い様が無い。私は、極力平静を保とうと普通の振る舞いをする様に食器を片付けるが、手が自然と震えるのが分かる。平静を装っても身体は正直な物で自然と反応してしまう。人間の心とは弱い物だ。
「この付近で変死体が発見された。それで聞き込み調査をしてるんだが、何か知らないか?」
 すっと、身体の力が自然と抜け落ちて行く。私には関係が無い。その思いが私の心を安定させて行く。私は自然な素振りで視線を逸らして富田の問いに答える。
「そんな話は聞いた事が無いですね」
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