揺らぐ幻影
お鍋の吹きこぼれる音に気付いてからでは遅く、既に起こってしまった最悪の事態を知らせるまでで解決にはならない。
「洋平ー、」という声をピアスで飾られた耳で聞いた後では手遅れで、
いくら食い気味で「ちょ! ばか」と止めようとしても、
反応されてしまっていた。
「……何、」
一番関わりたくない人物がこちらに顔を向けた。
やっと合った目、アーモンドチョコに似た瞳が潤んで見えるのは、
充血しているせいだろうか。
前のドア直ぐが彼の席なので、移動しなくても会話は成立し、
「ミーが作ったんだって。俺めっちゃ甘党だから要らない。甘くないんだって」と、
暴走し始めた市井を制御するタイミングを失ってしまった。
それでも結衣は王子様が手にしているマフィンは市井にあげるものだと手短に説明する。
なぜなら、もし近藤と静香のどちらかに恋愛感情があるのなら、
たちまちこの手作りお菓子が二人の仲を亀裂させる要因になるかもしれない故だ。
好きな気持ちが邪魔になるかもしれないなんて、数週間前は想像したこともなかった。
「雅様に作ったんです」と、へらへら笑う自分を嫌いになる。
空回りばかりして、なんだか疲れた。
あんなに大好きな男の子に食べてほしかったのに、いざとなると口にしてほしくなかった。
だって、丁寧に恋心を忍ばせても、捨てられたら困る。
ホッペに何か触れた。市井の人差し指だった。
膨らませていたらしく、突かれて歪んだ唇から小さく負の感情が零れる。
「ごめんね? 手作りはマズいイメージしかなくて無理」
悪戯っ子のように鼻にシワを寄せて笑われると、不覚にも険しかった表情も綻ぶ。
マフィンを渡しても大丈夫かなと、結衣は少し楽になったような気がした。
開けっ放しのドアから入る乱暴な風が髪の毛をさらう。
一束、イチゴソースを塗ったように光る声の元に張り付いた。
「はいはい、貰います」
近藤の手の平に移ったお菓子はとってもとっても美味しそう。
また頑張れるかなと思う。
ありがとうと言えない代わりに、ごめんと言うと、「はは、遺憾の意です」と彼は笑う。
いつもみたいな冗談に、バターが馴染むように胸が温かくなる。