揺らぐ幻影

  振り向いてよ!

侵入者に無反応な近藤にどうしていいか結衣が焦り始めたら、

好きな人の友人が「よーへー、後ろ」と、来訪者の存在を知らせてくれた。

  ……優し

市井のナイスフォローに感謝しつつ、英語の辞書を貸してくれないかと再度頼んだ。


勤勉ではない結衣が唯一購入した文庫本、冴えないサラリーマンが魔法使いになるお話の主人公に市井は似ていると思った。

ある日突然リストラに遭って、心のよりどころだった恋人はライバル社のエリートと結婚してしまう。

ひょんなことで彼は魔法使いになるのだけれど、

簡単に元恋人の気持ちを操れるし、仕事だってやり直せる威力がありながら、

彼はとうとう『普通になる』呪文をかけて、ハローワークに通う日々を選んだ――そんなしがない物語。


「あ、俺? うん? 辞書ー?」

振り向いた近藤を恥ずかしくて直視できないから、

いつも視線を外す結衣が市井とやたら目が合い、それに気づくと彼は淡く微笑んで緊張をほぐす魔法をかける。


「あー、と、うん、ある。ちょ、待って。あるはずー……たぶん」

鞄の中を漁る近藤は前屈みになるので髪の毛が目を隠し、なんだか色っぽい。

前に立った耳と唇だけが覗いて、妙な雰囲気にキュンとなってしまう。

現れた二つの眼は一瞬だけ柔らかく細められたような気がした。

「はい、ビンテージで汚ぇけど」

「わ! あ、ありがと、近藤くん」


手渡されたのはシルバーの電子辞書で、煌めくピアスより綺麗だ。

ビンテージという冗談に食いつけずに、滑らせたことには気付けなかったのは致し方ない。


角の塗装がはげて本体の白色が見えているし、結構な割合で傷がついている。


「……」

辞書は借りた。用は済んだ。

「…………。」


  ――……。

「あ、……りがと」

行きとは違い帰りは弾かれるように結衣は走り去った。


男子イコール巻き髪が好きという古典的な知識など、見る目がある人に法則は当て嵌まらないのだが、

恋愛見習いは王道なステレオタイプなので、単純な迷信に素直だ。

お気に入りのシャンプーの甘い香りをほのかに漂わせて、長い髪の毛がくるんとセーターの上で一束揺れた。

< 94 / 611 >

この作品をシェア

pagetop