一なる騎士

(4)女神の名

 セイファータ公爵領は、『大地』の中でも一、二を争う豊かな穀倉地帯であった。
 しかも、今は秋。収穫の季節である。

 たわわに実った黄金の小麦畑がどこまでもどこまでも続き、人々は収穫に追われている時期のはずだった。

 しかし、小麦は丈高く育っていても、穂の中に実はほとんど入っていなかった。
 収穫などできようはずもなく、畑は放置されたまま人の姿など見えない。

 ずっと雨ばかりが降り続いて、日が照らなかったせいだという。小麦だけではない。豆や野菜類、そして果実もまた不作であった。

 農民たちは、この冬を無事にしのぐことができるのだろうか。
 馬を引いて、セイファータの城門をくぐるリュイスの気は重かった。

 門番たちと上の空で言葉を交わし馬を託す。そのまま正面のセイファータ城ではなく、奥の別邸にむかった。

 そこはセイファータ公爵の嫡子の邸宅となっている。
 リュイスがここに来るのは、はじめてではなかった。

 セイファータ公爵の嫡子に嫁いだ姉が、男の子を出産したときに、生まれたばかりの甥に会いに来たことがある。その子は、いずれリュイスの跡を継いで『一なる騎士』となるべき赤子だった。

 しかし、その赤子は当時のリュイスには何の感慨も与えなかった。
 しわくちゃで真っ赤な顔でぴいぴい泣いているばかりで、辟易とさせられた。

 赤子よりも、リュイスに鮮烈な印象を与えたのは、姉の誇らしげな顔だった。
 いつも控えめでおとなしいばかりで目立たず十人並の器量しか持たない姉が、このときばかりはまぶしいほど輝いて見えたものだった。

 以来、リュイスはセイファータ領を訪ねることはなく、甥にも会ってはいない。
 レイルと名付けられた赤子は、この春には五歳の誕生日を迎えたはずだ。
 もうリュイスの記憶にあるような赤ん坊ではないだろう。

 セイファータ城に到着したのは昨夜遅かった。今朝はあまり早く目がさめたので、視察を兼ねた早駆けに出て戻ったところだった。

 リュイスはこれから『一なる騎士』として、セイファータを起点に王を制する軍を集めなければならない。

 忙しくなる前に、成長した甥の顔を一度見ておきたかった。
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