闇夜の略奪者 The Best BondS-1
 そのとき、エナは見た。
 自身の髪だけが視界を彩っていた真っ暗な海中に、ふわりと映りこんだ別のもの。
 それは見慣れたものだった。
 いつも首からかけて胸元にしまいこんでいる水晶だ。見る角度によって色が変わる無色であり七色である水晶は、一寸先も見えぬような海の中で淡い光を湛えているように見えた。
 穏やかな。ただ、穏やかなその光。
 ――ママ。
 それはエナが母親から譲り受けたものだった。
 浮かんでくる。強く強く、ただひたすら強かった母親の姿。
 脳裏の母は何も言わない。静かに微笑みかけただけだ。
 だが、エナの目は優しく緩んだ。
 ――……そうだよね。
 必死に息をして、必死に手足を動かして、そのくせ生きる為に選んだことに死にたいくらい後悔している。
 ――なんて……なんて馬鹿らしい。
 エナは泳ぎを止めないまま、目を閉じて笑みを浮かべた。
 自嘲と、諦めの笑み。
 時は戻せないけれど、後悔するとわかっている選択をそのままにしておく必要は無い。やり直せることは、今からでもやり直せばいい。
 そんな心の在り様を嘲りながらもエナは抵抗を諦める。
 ――これが、あたしだもんね。
 それ以上でも以下でもない、と。エナはしっかりと前を見据えた。
 ――あいつを、助ける。
 意志と共にその言葉を深く心に刻み込む。
 そうと決まれば、するべきことは決まっていた。
 ゼルが命を落とす前に体勢を立て直し、もう一度あの船へ。
 助けると決めはしても、無駄死にする趣味はエナには無い。
 後顧の憂いは徹底的に排除する。
 その為には一刻も早くトルーアに戻り、あの男に会わねばならない。――深い紅をその身に受ける、底知れないあの男に。
 暗く冷たい海の中、エナはただゼルの無事を祈り、泳ぎ続けた。
< 37 / 115 >

この作品をシェア

pagetop