コーヒー溺路線
「それじゃあ行こうか、奈津」
靖彦はいったいどういうつもりの悪戯心だろうか、今の奈津には全く解らない。
初めて靖彦に奈津と呼ばれ、奈津は興奮と驚きを隠せずにいた。
「奈津だけが靖彦と呼ぶのは狡いだろう」
変わって靖彦は呑気にそう言った。有無を言わせぬその勝ち誇るような表情に奈津は再び胸を揺さぶられるようだった。
「この辺りに俺の気に入っている軽食屋があるんだ」
「あ、はい」
「あった、入ろうか。この店の定食は安くて旨いからお勧めだよ」
靖彦に促されて奈津はその定食屋に入る。いらっしゃいませと声がして空いている席に通された。
「ご注文はお決まりですか」
店員が聞きにきた。
日替わり定食が旨いのだと靖彦が勧めるので奈津は日替わり定食にした。もちろん靖彦もである。
「あの、林さん」
「靖彦だよ、奈津」
「っ……」
奈津は靖彦の優しい声にどきりとした。
いけない、この人には奥さんがいるのだと自分に言い聞かせるように奈津は目を伏せた。