コーヒー溺路線
その日の夜九時頃、彩子はいつものように部屋で靖彦の帰りを待っていた。九時頃には帰ると連絡があったので要らぬ心配はしていないし、案の定直ぐに扉の開く音がした。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「お疲れ様。何か食べる?」
「いや今日はいい。代わりにコーヒーをもらおうか」
「あら珍しい」
嬉しそうに微笑むと彩子は腰を上げた。
今まで彼女が飲んでいたであろうコーヒーの入ったマグカップも、彩子は持っていった。
靖彦は奈津との接吻に罪悪感はある。
彩子は何も知らない。知らないのだ。今日の昼に靖彦が奈津と食事をしたことも、靖彦が何度も奈津の名前を呼んだことも、口づけを交わしたこともだ。
罪悪感はある。
「奈津、か」
今湯を沸かす彩子には聞こえない程の、小さな蚊の鳴くような声でそれを呟いた。
靖彦が経済的な面で彩子と結婚式を挙げられないということは建て前で、本当は今忽然と現れた奈津の存在が無意識にそうさせているのではと思うと、意外にも自分はロマンチストなものだなと靖彦は思った。
奈津が現れる前から無意識にそうしていたのだとしたら、籍を入れた彩子には申し訳がないなとも思った。