Fahrenheit -華氏- Ⅱ
「ところで、心音ちゃん一人にして大丈夫?不慣れな土地で迷ったりしないかな」と俺がちょっと首を傾けると
「大丈夫ですよ、昨夜食べたいお店を色々探していましたから。心音は方向音痴と言うわけでもないですし」とあっさり言われ、だけどすぐにお代わりで頼んだ生ビールのジョッキを両手で包みながら僅かに目を伏せ、口元に淡い微笑を浮かべながら
「優しいんですね」と囁いた。
衝動的に、俺は身を乗り出し向かい側に座っている瑠華に、勢いをつけてチュっとキス。
すぐに顔を戻したが
「ちょっ…!佐々木さんが戻ってきたらどうするんですか」と瑠華は目を吊り上げる。
「ごめんなさい」と反省してるフリをしたが、瑠華も本気で怒ってなさそうで
「今度、金目鯛の煮つけを作ってくれたら許します」とちゃっかり。
YES!!瑠華ちゃんが食べたいもの何でも作るヨ!!
とやり取りをしている最中に佐々木が戻ってきやがった。
ちっ
永遠にトイレに閉じこもってればいいのに。
と言うわけで夜も22時になると瑠華は流石に時間を気にしだして、その場はお開きとなった。
俺と佐々木は日比谷線で途中まで一緒だから何となく一緒に帰ることに。
瑠華も日比谷線だったが完全反対方向だから、俺たちは広尾駅で別れることになった。
タクシーで帰ることを勧めたが、それほど遠くないと言う理由で瑠華は東京メトロを選んだ。こんな時間だし酔っぱらいに絡まれたり、たちの悪いナンパとかあったら…とか心配だったが過度に心配すると、今度は佐々木に怪訝に思われる。
「帰りにコンビニに寄りたいのでちょうどいいです」と瑠華は言い
「心音にお土産を買って帰ります」と佐々木には聞こえない程度でこそっと耳打ちされて「そっか~、瑠華も律儀だね」と苦笑いを返した。
「心音ちゃんに宜しく」
「ええ、お気遣いありがとうございます」と小声で答えてくれて
俺たちは今度こそ別れようとした。
が、瑠華が
「部長」と彼女らしからぬ少し大きめの声で俺を呼んだ。まぁ、表通りだったし、人が多いってのもあったけどね。
俺は勿論のこと、佐々木も振り返る程の声。
「ありがとうございます」
またも礼を言われて、しかしその顔には相変わらずの無表情が張り付いている。けれど、見間違いかな、一瞬だけるかの目に強い光が宿り、険しく見えたのは。
「ん?うん、また行こうね」と手を振ると瑠華が僅かにうつむき、何事か呟いた。
今度の声は小さくて聞き取れなかった。だが確実に口は動いていた。何かを言ったのは確かだ。
俺はまたも「え?」と耳に手を当てて聞いたが、
「いえ、何でもありません。おやすみなさい。また明日」
次の瞬間、瑠華はまた無表情になっていて、結局彼女が何を言ったか分からず。
まぁ?『帰ったら連絡します』とか、だな。きっと。そこに深い意味はない。
『会いたい』と言ってくれたのは素直に嬉しかったが、瑠華は帰ったら心音ちゃんに振り回されるんだろうな~とちょっと心配。
「それではまた明日、お疲れ様でした」と反対方向に向かうホームの中で俺たちは別れた。
また明日、その言葉が嬉しかった。
できればその場でぎゅっと抱きしめて、さっきの軽いキスではなくもっと濃厚なキスをしたかったが、佐々木もいることだし何せ会社の近くだ。
「帰ったら連絡します」と、たぶん言ってくれた言葉に、俺はやっぱり心が高鳴った。
瑠華―――
大好きだよ。
この気持ちは永遠に続く、そのことを願って俺たちは別れた。