Fahrenheit -華氏- Ⅱ
何とか心音ちゃんを返した後も、キマヅさだけが残った。
菅井さんも帰るタイミングを逸した、と言う感じでぎこちなく外を見やり
「それでは私も…」
と、ようやく最後の挨拶を交わし社外へと出て行くとき、俺は
「あの!」
自分でも自分の行動が良く分からない。俺は何故か帰ろうとする菅井さんを引き止めた。
菅井さんが「まだ何か?」と目で語って顏を上げる。
「あの……この後ご予定は?」
俺がおずおずと聞くと、菅井さんはちょっと考えるように目をまばたき
「これから2社程打ち合わせがあり、その後は社に戻る予定ですが」
「仕事が終わった後は……?」と、さらに聞くと菅井さんはちょっと目をまばたき、帰ろうとしていたつま先をこちら側に向けた。
「行く―――所があります」
菅井さんはたっぷり間を開けて、ゆっくりとした口調で言い放った。その目は俺を見ているのに、実際には捉えていなくて、俺の向こう側……どこか遠くを彷徨っている。……ように思えた。
「そう……ですよね、すみません……お引き留めして……不躾な質問お許しください」
頭を下げると
「いえ、用が終わったら家に帰るだけですので、用件を済ませた後でよろしければ」
と、菅井さんはグラスを傾けるジェスチャーで人懐っこく笑った。
俺もその笑顔にぎこちなく笑う。営業相手と飲みの場を設けるのも、仕事の一つ。アルコールも入れば、幾らか相手の気持ちも緩む。懐に入り込む最も近道だが、俺は菅井さんのビジネスの中枢に入り込む気なんてない。
菅井さんはきっと俺を単なる仕事相手として誘っているだけかもしれないが。
俺は―――
菅井さんの心の中に入り込みたい。