はぐれ雲。
彼は玄関のドアを開けると、「ただいま」と小さく言った。

そっとリビングをのぞく。

「あら、おかえりなさい」

博子はアイロンをかける手を休めて、振り返った。

「今日は随分早いのね」

そう言うと、再び手を動かし始める。

「お腹すいてるでしょ?もう少しで終わるから、待ってて。すぐに食事用意するから」


アイロンを押し当てる度に、蒸気のシューシューという音が聞こえる。


「ねぇ、達也さん。いつも言ってるでしょ。こんなに早く帰るなら、連絡ちょうだいって」

彼はそれには答えず、博子の背中を見つめた。

いつもならネクタイを緩める手が、今日だけは鞄を強く握りしめていた。

「先に着替えてきたら?」

右手を左右に大きく動かしながら博子は言ったが、それにも達也は答えず

「有休、取ったんだ」と静かに告げた。


その言葉に博子は驚いたように笑う。

「有休?嘘でしょ?取れるの?名前だけの制度だと思ってたわ」

冗談っぽく言うと、手で服の大きな皺を伸ばしていく。


相変わらず、アイロンは蒸気を吐き出す。

それが達也には耳障りでたまらなかった。




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