はぐれ雲。
ボストンバッグを持って、博子はきれいに片付けられた部屋を見渡す。

新婚生活が始まった頃を思い出していた。

何をしていても楽しかった日々。
仕事から帰ってくる彼を窓からのぞいては、今か今かと待っていた日々。

もう遠い過去の思い出となってしまった。

そうしてしまったのは、まぎれもなく、この自分。

鉄の重い扉を静かに閉めると、鍵をかけた。

全ての思い出を、この部屋に閉じ込める。

博子は覚悟を決めた。




資料室の達也のもとに、桜井がやってきた。

「ちょっと来いや」

廊下に出ると、桜井が小声で言う。
「奥さん、来てるで」と。

途端に鼓動が早くなる。

「今から、四課のやつらが話聞くとこや」

「そう、ですか」

「行くぞ」と桜井は歩き出した。

「何しよんじゃ!はよ来い」

とまどう達也に彼は怒鳴った。

「おまえの嫁さんやろ!結果がどうなろうと、見届けたらんかい」



取調室の隣の小さな部屋では、すでに他の捜査員が2、3人控えていた。

一様に達也に冷たい視線が注がれる。

「まぁまぁ、わしが加瀬を誘うたんや。そんなこわい顔すんな、な?」

桜井が笑いながら、その場を静める。

達也は、何日ぶりかに取調室の真ん中で座っている博子を見た。

紺色のスーツに、控えめな化粧。

真っ直ぐに前を向いたまま、身動き一つしない。

左手の薬指には、まだ光るものがあった。

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