はぐれ雲。
達也は胸の前にある博子の細い手を握りしめたまま、霞む夜景を見下ろした。

「ありがとう、達也さん」

ささやくような、柔らかい声が背中からした。

「ん…」

「今ね、こうやって背中に耳をつけて、達也さんの本心を聞いてるのよ」

「ふぅん、なるほどね」

笑いながらそう返すと、博子は怒ったように「あ、バカにしてるでしょ」と顔を覗き込んだ。

「してないよ」

握った手に、達也は力を入れる。

それを握り返すと、博子はまたゆっくりと彼の背中に頬を寄せた。

「どうしてあなたはこんなに優しいのかなって思って…あなたの心に直接聞きたいのよ。
あなたは本心をなかなか言ってくれないから。きっとあなたの心は傷付いてる。私のせいで。でも言ってくれないから…だからこうやって聞いてあげるのよ」

「……」

<達也さん。
もうこれで最後にするから。
二度とあなたの口から、新明くんのことを言わせない。どんな思いでそう言ってくれてるか、痛いほどわかるから。だからこそ、もう最後にするからね…>

しばらくの沈黙の後、口を開いたのは達也だった。

「わかった?俺、何て言ってた?」

「…明日はうるさい嫁がいないから、女の子のいるお店に飲みに行こうかなって言ってるわよ」

「当たり」

「もう!」

彼女は達也の胸にまわした腕に力を入れた。

「うっ、苦しい」

「まいった?」

「まいった、まいった。降参」

声を上げて笑いながら、彼は博子に向き直った。

そしてそっと抱き寄せると、彼女も自然に彼の胸に頭をもたげる。


酔いの醒めた達也に、春風が吹く。

彼は少し肌寒い、と感じた。

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