天体観測
「なあ、恵美」

僕は恵美の耳元で話かけた。恵美からは夏の匂いがした。

「無理やり元気を出せなんて言わない。隆弘と、引き換えにしろとは言わない。でも、隆弘をこのまま逝かせるわけにはいかない。少なくとも……俺は」

恵美は僕の胸に顔を押しつけて、僕の肩を強く握った。

僕らはしばらくそのままの状態でいた。この空間には、僕らの他に誰もいない。

「もう少し……考えさせてくれへんかな?」

恵美は僕の胸の中で、低く、聞き取りにくい声を出した。

「ゆっくり考えればいい。もしかしたら、これはものすごく危険なことかもしれないし、何の成果もないかもしれない。でも、やる価値はあると思う」

「ゆっくりとは考えてられへんよ」

「大丈夫。父さんは名医とまではいけないけど、優秀な医者だと思う。それに、消えそうな生命を目の前にして、逃げ出すような、潔い人間じゃない」

「ホンマに?」

「まあ、生きてる人間二人からは、ものの見事に逃げ出したけど」

恵美は笑って、僕の胸から離れていった。

「もう帰ろう。これ以上はマスターに迷惑がかかる」

「何言ってんねん。もう十分迷惑かけとるわ。阪神は負けるし、飲んだウイスキーは不味いし、最悪や」

マスターはいつのまにか僕らの後ろに立っていた。手にはウイスキーの空瓶を持っていて、僕らが話している間に、一本空けたらしかった。

「すいませんでした。友達にもこの店紹介しときますから」

マスターは恵美から視線を外して、まんざらでもない顔をして、言った。

「君みたいなべっぴんさんに言われるとかなわんわ。でも、今日は帰り。また来ればええ。年中無休やから」
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