ギミック・ラブ ~年下小悪魔の上手な飼い方~《完》
18 年上女との、戦い方
☆☆☆☆☆
柚木クンがいなくなっても、
オフィスの日常に変化はない。
元からあたしは直接の
関わりもなかった。
彼がいようがいなかろうが、
あたしは自分の仕事を普段
通りにこなしていく毎日だ。
雅絵がたしかに聞いたという
うちがホワイト・マリッジに
吸収されるという話も、
上層部から告げられる
気配はいっこうにない。
課長もたまに見かける
上層部の人間も、のんびり
した顔で廊下を歩いてる。
きっと吸収の話は
なくなったんだろう。
聞かなくても、あたしには
それがわかっていた。
_この会社の誰ひとりそれを
知ることはないけれど、
彼はやっぱり、この会社を
救ったんだ。
だからあたし達は今日も、
平和に営業を続けてる。
そんな日々を一週間ほど
繰り返した頃。
あたしは奈々に、拓巳と
別れたことを話した。
今までは、話せてなかった。
拓巳とあんなことがあった後、
柚木クンとも関係を持って
しまって、それからの
あたしは始終彼に
翻弄されていたし。
それに今拓巳の話をすれば、
どうしても同時に柚木クンの
ことを考えてしまう。
_だけど一週間経って、心も
少しだけ落ち着きを取り出した。
だからとりあえず拓巳の
ことだけは、話して
おこうと思って。
あたしから飲みに誘った
居酒屋で突然『拓巳と
別れたんだ』と聞かされた
奈々は、こぼれんばかりに
目を真ん丸にして、
「えっ、なんでっ!?
もしかして、あたしが倦怠期
じゃないかなんて言ったから!?」
「違うよ。奈々は無関係
だから心配しないで。
そうじゃなくて……」
「じゃ、どうしてよ?」
「………浮気されてた。アハハ」
情けない気持ちをごまかす
ように、渇いた笑いと
一緒にそう告げる。
_奈々は今度は口を
あんぐりと開いて、
「浮気!? 確かなの?」
「確かも何も、この目で
見たから。
その場で終わっちゃったよ。
あっけないもんよね」
三年もつき合ってたのに、
最後は『ゴメン』の一言で
幕をひかれた。
あたしがこれっぽっちも
本当の拓巳を見れてなかった
っていう、いい証拠だ。
「そうだったんだ……」
奈々はそう呟いてから、
しばらく黙り込む。
唐突すぎて次の言葉が
出ないという感じだった。
「ちょっとちょっと、
暗くなんないでよ!
あたしはもうふっ切れてる
から、平気なんだから」
「……ウソ。ホントに?」
_「ホントだってば」
即答したけれど、奈々は
ふに落ちない表情で
切り返してくる。
「でも美咲、ここ最近
元気なかったじゃん。
それってやっぱ、まだ
落ち込んでるってことじゃ――」
「え―――…」
ドキッとした。
“元気がなかった?”
あたしは、普段通りに
振る舞っていたつもり
だったんだけど。
だけどもし、奈々には
それが空元気と見抜かれて
たんだとしても。
―――その原因は、
拓巳じゃない。
拓巳のことは、自分でも
信じられないくらい、遠い
昔のことのように感じてる。
_終わった恋。
そう気持ちの整理がついてる
から、今はもう本当にその
ことで落ち込んでもないし、
未練を持ってもいない。
そう――あたし自身も
気づかないうちに、完全に
拓巳への気持ちは終わっていた。
その後あたしの心にスルリと
入り込んで、好き勝手
振り回していってくれた、
アイツのおかげで……。
「……本当に、拓巳の
ことはもういいんだよ」
短い間の後、あたしは
かすかに揺れる声でそう答える。
……拓巳のことは、もういいの。
あたしの中でちゃんと
終わってないのは……今は……。
_「これからは、奈々と
一緒にお一人様ライフ
満喫しちゃうかなぁ。
この歳になったら、そう
簡単に次の出会いなんて
転がってないもんねー」
胸の奥で小さくうずく痛みを
ごまかすように、あたしは
やたら軽くそう言って、
ハハッと笑った……。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
会社で些細な違和感を
感じたのは、それから
さらに数日経った頃だった。
会社と言っても、正確に
言うとオフィスでという
わけじゃない。
正しくは、社屋ビルの一階
ロビーや、ランチに出た外とか。
つまり、仕事中のオフィス
以外の場所で。
発端は、ある日の昼休みだった。
「ねぇ奈々。あの人昨日も
あそこにいなかった?」
奈々と一緒にランチに
出ようと、ビルの一階を
エントランスへと向かって
歩いていた時。
あたしは怪訝に思って、
試しに奈々にも尋ねてみた。
「え? あの人……って、誰?」
_キョトンとしている奈々に、
あたしは小さくアゴで
方向を示して、
「あそこ。談話スペースの
奥の方の席よ」
そこには、黒いロング
コートの中年男性が一人
座っている。
テーブルの上には、小さめの
アタッシュケースと新聞。
いかにもビジネスの空き
時間をそこで過ごしていると
いう感じで、別にこれと
いって不審なところは
ないんだけれど……。
(昨日だけじゃなく、
おとついもいたと
思うのよね……)
おとついの昼、フッと顔を
向けた時に、たしかあの人と
目があった。
昨日は気づかなかったけれど、
今日も同じ姿を目にした
ことで、思い出したんだ。
_だけど奈々は談話スペース
なんて目も向けていない
らしく、困ったように首を
かしげる。
「さぁ……わかんない。
てゆーかあんな所別に
気にしてないし」
「そっか……まぁそうだよね」
あたしだって以前なら、
通るたびに談話スペースを
気にすることもなかったろう。
だけど今は、無意識の
うちについ目がいってしまう。
あそこは、柚木クンと蘭子
さんが話をしていた場所だから。
(あたしが変に気にしてる
だけかな……)
あたしにはそんな習慣
なくても、このビルの
関係者であそこを休憩場所
として愛用する人も、
そりゃあいるだろう。
_この時間なら食事をしない
のかという疑問はあるけれど、
別にそんなの、不自然という
ほどのことでもないし……。
――結局その日は、
それだけで終わった。
だけどそんなふうに話題に
あげて顔もしっかり覚えて
しまうと、翌日には違和感は
さらに大きくなる。
気づいてしまったんだ。
その男の人が、あたしが
退社する時間にもそこに
いたり、逆にランチに
入った店の中で見かける
時もあるっていうことに。
(おかしい……。
なんでこんなに、あの人を
見かけるの……?)
「ん? あのオジサン、
前に美咲が言ってた人
じゃない?」
_数日後の退社時には、とう
とう一緒に帰っていた
奈々もそう言った。
そのオジサンは、今日も
いつもと同じケースを持って、
談話スペースに一人で
座っている。
……間違いない、かもしれない。
(あたし……あの人に、
見られてる……?)
ちょうどその時、また
その人と目が合って、
背中がヒヤリと冷える
ような恐怖を感じた。
男の人はすぐにあたしから
目をそらすと、どこか
とってつけたように腕時計を
確認して、ケースを手に
立ち上がりそそくさと
ビルを出ていく。
その背中が、ますます
怪しく見えてしまった。
_(なんなの、一体……?)
得体の知れない胸騒ぎを
覚えた翌日。
あたしは、さらに信じられ
ない人物の来訪を受ける
ことになる。
――一日を終え、帰宅しようと
ビルを出た時だった。
今日は奈々が後輩のフォローで
居残りになってしまい、
あたしは一人でいた。
その背中に、唐突に声がかかる。
「ちょっと、あなた」
あたしが呼ばれてるのか
どうかもわからない呼び方
だったけど――でも、
あたしはすぐに振り向いた。
その声に、聞き覚えが
あったから。
「ら―――…っ!!」
柚木クンから聞かされた
呼び名で叫びそうになって、
あわてて声を飲み込む。
_だけど間違いなく、目の前に
立っているのは。
(蘭子さん……!?)
どうしてこの人がここにいて、
あたしを呼び止めるのか。
状況が理解できなくて、
あたしはその場で硬直していた。
温かそうでゴージャスな
毛皮のコートに身を包んだ
蘭子さんは、わずかに頷いて
落ち着いた声で、
「そう、あなたよ。
ちょっとあなたに話があるの。
つきあってもらえるかしら」
「え―――…」
――話? って、一体なんの?
呆然として言葉を返せないで
いると、彼女は形のいい
眉をスッとひそめて、
「ボーッとしないでちょうだい。
ほら、ついて来て」
_「あっ………」
蘭子さんはクルリと踵を
返すと、さっさとビルの
出入口を離れ歩道に出る。
あたしがついて来るかどうか
確認もせず、ブーツの踵を
鳴らして一人で歩き始めた。
(ちょっと待って、
なんでっ……!?)
パニックに陥りそうに
なりながら、必死で考えた。
あたしと彼女の関係は、
会社社長と、その提携企業の
一社員。
たったそれだけなら、こんな
ふうに社長自らがあたしに
声をかけることなんてないはず。
だけどもし、それだけじゃ
ないとしたら。
他にあたし達を繋ぐものが
あるとすれば、それは、
柚木クン以外にはありえない。
_柚木クンとの関係は、誰も
知らないはずだけれど……
それでもその可能性を
考えた時、あたしは心を決めた。
蘭子さんの思惑は見当も
つかない。
でも、柚木クンに関係が
あるかもしれないなら、
その話を聞いてみよう。
ううん、むしろいつの間にか、
それが聞けるかもしれないと
いう期待すら芽生えてる。
だって、彼が会社を辞めて
から今日まで――今どこで
どんな生活をしてるのかを
気にしなかった日は、多分
ほとんどないんだから。
「―――乗って」
会社を少し離れた路上で、
蘭子さんはそう言って
車道を目で示した。
そこはパーキングスペースで、
一台の赤いボディの車が
停まってる。
_(なんか高そうな車――。
これ、蘭子さんの……?)
考えるあたしの目の前で、
蘭子さんはロックを解除して
運転席に乗り込んだ。
二人きりで車で移動すると
いうことに、緊張を
感じないわけはない。
でも、ここまで来て
引き下がるのも情けない。
あたしは覚悟を決めて
助手席のドアを開け、
体を滑り込ませた。
「そんなに警戒しなくていいわ。
落ち着いて話せる所に
移動するだけよ」
前を向いてハンドルを
切りながら彼女が告げた
言葉は、それだけ。
それ以上は今はまだ話して
くれる気配がなかったから、
あたしも黙ってシートに
身を預けていた。
_やがて15分ほど走って車が
到着したのは、都内にある
シティホテルのエントランス。
すでにチェックインして
いたのか、車を降りた蘭子
さんは迷わずロビーに直行し、
部屋番号を告げてルーム
キーを受け取った。
高層階にあるその部屋へ
エレベーターで移動し、
促されるまま中に入る。
中はすごく広くて豪華な
部屋で、よくあるワンルーム
じゃなく、リビングと
ベッドルームに分かれてた。
蘭子さんはあたしを残して
また一人サッサとリビングに
進むと、ソファにドサッと
体を沈めて、
_「あなたもかけて。
ワインか何か、
用意しましょうか?」
ワインって……彼女の目的も
わからず、『頂きます』とは
とても言えない。
もしかしたら緊張をほぐす
ためには、アルコールでも
入ってた方がいいのかも
しれないけど。
だけどこんなふうに連れて
来られたことで、もうほぼ
ハッキリした。
彼女の目的が仕事絡みと
いうことはありえないだろう。
彼女はあたしと内密の話が
したくて、こんな場所を
選んだんだろうから。
「……けっこうです」
あたしは短くそう言って
申し出を断り、ソファにも
座らずに立ち位置だけを変えた。
ソファの右、蘭子さんの
斜め前の位置に立つ。
_どう考えても、好意的な
話だという予感はしない。
それにさっきから、人を
威圧するような高圧的な
口調がどうにもカンに障る。
だからそれに対抗するための、
ささやかな強がりだ。
蘭子さんはそんなあたしを
見て、フッと微笑をもらすと、
「そう。それじゃあ、
さっそく本題に入らせて
頂くわね。
――あなたまだ、瞬也の
ことが好きなのかしら?」
「――――は?」
聞き返すまでに、たっぷり
数秒の時間を要した。
薄々柚木クン絡みだろうとは
察してた。
だけどそれでも、こんな
質問が飛んでくるとは
思ってもなかったから。
_(あたしが――柚木クンの
ことを好き――…!?)
蘭子さんの口調には、
これっぽっちも疑いがない。
なぜだかわからないけど、
彼女はそうだと思い込んでる
みたいだ。
「あ、今さらしらばっくれ
たりしないでいいのよ。
もう全部わかってるから。
今日は、あなたと腹を
割って話をしたいの」
「ちょっと待って下さい。
何ですか、全部わかってる
って?」
意味がわからない。
蘭子さんはあたしと柚木
クンのことをどこまで
知ってるの?
そしてどうして、あたしが
柚木クンを好きだなんて――。
(まさか、柚木クンがそう
言ったの……?)
_一瞬そんな思いがよぎった
けど、返ってきたのは全然
違う答えだった。
「あら、あなたも
気づいたんじゃないの?
――もう調べはついてるの。
あなたが瞬也のただの先輩
じゃなくて、ついこの間
までの同棲相手だったこと」
「―――――!?」
“調べはついてる”という
ワードに、敏感に脳が反応する。
「もしかして、あの怪しい
男の人――…!?」
「そうよ。私が雇った探偵。
でもとんだ出来損ないだったわ。
あなたに感づかれたみたい
だって言うから、早々に
調査は切り上げて、私が
直接出ることにしたんだ
けれどね」
_「探偵………」
……信じられない。
そんなことまでして、この
人はあたしのことを調べたんだ。
だけどどうして?
一体、なんのために?
「瞬也から私のことは
聞いてないかしら?
私は彼の親代わり。離れて
暮らしていても、あの子の
生活ぶりを把握する義務が
あるでしょう?」
「なっ………」
シレッと言ってのける
神経に、彼女の人格を疑う。
義務だなんてよく言えたものだ。
たしかに、彼女は柚木クンの
親代わりだった。
だけどそんな彼女が柚木
クンにしたことは、とても
親の代わりを務める行為
じゃないし、第一彼は成人
して、今はもう養護される
立場じゃない。
_義務だなんて嘘だ。
この人は――自分の欲望の
ためにやってるに違いない。
(最低………!)
最初からいい感情は持って
いなかった。
だけど話をして、蘭子さん
への嫌悪感が見る間に明確な
形を持ってムクムクと胸を
覆い尽くす。
この人は、本当に柚木クンを
独占しようとしてる。
彼の気持ちなんてお構い無しに。
「……あなたは、柚木クンの
親代わりなんかじゃない。
住む所と食べ物を与えて、
利用しただけじゃないですか」
自分でも驚くほどの、嫌悪を
あらわにした声が出た。
頭の片隅で、この人は提携
先の社長なのよ! とハラ
ハラしてるもう一人の
自分の声もする。
_だけど一度声にしてしまえば、
感情はもうそんなものじゃ
抑えられない。
だってあたしはこの人を、
心底軽蔑するから。
「……なんだ、やっぱり
知ってるんじゃない」
蘭子さんの返事は、驚いた
様子もなくあっけらかんと
していた。
「まぁそれなら話は早いわ。
そうよ。瞬也は私のものなの。
そういう意味でね。
だから、離れていてもあの
子のことはちゃんと把握してる」
「何がっ……」
何が把握よ。探偵を使って
調べるなんて、ただの
プライバシーの侵害だ。
あたしの内心は煮え繰り
返っていたけれど、蘭子
さんは構わずに話を続けた。
_「今までも、ずっとこう
してきたわ。
だってどんな女の所に
行こうと、最終的に瞬也が
帰る場所はただひとつ
なんだもの。
それなのにあまりその気に
させちゃ、相手の女の子も
かわいそうでしょう?」
「は―――…?」
どういうこと?
それじゃあつまり……過去の
柚木クンの同居人にも、
蘭子さんは何らかの関与を
してきたってこと?
あたしにこんなことを言う
ように。
(もしかして柚木クンが
女の人の家を転々としてた
のは、それで……?)
蘭子さんが邪魔をする
から、どの人とも長続き
しなかったんだ。
_「どうしてそんなこと
するんですか?
あなたはもう柚木クンの
後見人じゃない。
どこに住んで何をしようが、
彼の自由なはずです!」
声を震わせてそう言うと、
蘭子さんは即座にフンッと
鼻で笑った。
「だから言ったでしょう?
後見人じゃなくても、瞬也は
私のものなんだって。
あの子だってそれは
わかってるの。ただ少し
旅をしたくて、私の家を
出ていたけどね」
「そんなっ………」
(違う。そんなの嘘だ――!)
たしかに柚木クンは言ってた。
『オレはずっと彼女の所有物だ』
なんてことを。
でもあの時の彼の表情は、
とてもそれを心から納得
して受け入れてるようには
見えなかった。
_どこか遠くを見て、虚ろな――
諦めたような、悲しい目だった。
(柚木クンは蘭子さんとの
こんな関係、心底望んでる
わけじゃない。
この人は、本当にそれに
気づいてないの……!?)
「瞬也だって、色んな女と
関わってきてるけれど、
どれも本気じゃないのよ。
現に、揉め始めたらいつも
スッと自分から引いて、
次の女の所へ行くって調子
なんだもの」
あたしの考えを裏付ける
ように、自信に満ちた声で
言う蘭子さん。
だけどその声が、唐突に陰った。
いきなりトーンの落ちた
声で、彼女はこう続けたんだ。
_「―――今までは、ね。
だけど今回だけは違うみたい。
……ねえあなた。私の
瞬也に、何か余計なことを
してくれたわね?」
「え―――…?」
思いがけない言葉に、
ドクンと鼓動が波打つ。
混乱する頭でその意味を
考えようとする前に、蘭子
さんは矢継ぎ早に次の言葉を
あたしに放った。
「だからとぼけないで。
わかってるって言ったでしょう。
瞬也は何でもないと言い
張ってる。でも私にはわかるの。
あの子があんなふうに
なるのは、初めてなんだから」
「柚木クンが、“あんな
ふうに”って……!?」
_彼は今、どうしてるのか。
最も気にしていたことに
話が及んで、あたしの
鼓動は一気に高まった。
「何でもないふうを装ってる
けど、てんで上の空よ。
心をどこかに落としてきた
みたいにね。
……最初からあの会社には
何かあるんだろうとは
思ってたわ。
取引してまで会社を救おうと
するなんて、瞬也らしく
ないもの」
「…………っ!」
確信は持ってたけど、
やっぱりそうだったんだ。
柚木クンが辞めたのは、
吸収合併から会社を救う
ため――…。
「だから今回も調べさせて
もらったわ。
あなたのことはすぐにわかった。
それに、あなたとは一度
会ってたわね?」
_談話スペースで二人の
会話を盗み聞きした時の
ことを言われてると気づき、
返す言葉に戸惑う。
「思えばあの後の瞬也の
態度も、どこかおかし
かったわ……」
独り言のようにポソリと
呟いて、次に蘭子さんは
キッと目を細めてあたしを見る。
そうして明らかな悪意を
含んだ声で、吐き捨てる
ように言い放った。
「ほんの数日同棲してた
だけのくせに、随分うまく
瞬也に取り入ったのね?
もしかしてあなた、ベッドの
上がお得意なのかしら?」
「なっ…………」
忌ま忌ましさが悪寒のように
背中を駆け登った。
本当に最低だ。
どうしてこの人は、そんな
目でしか見れないの。
_「あたしと柚木クンは、そんな
関係じゃありません……!」
グッと拳を握り、かすれる
声で答える。
「そんな関係じゃなかったら、
どんな関係なの。もしかして
真剣に愛し合ってるとでも
言うつもり?
だったらそれは、あなたの
思い過ごしよ」
「違いますっ……」
―――そうじゃない。
そんなことを言うつもりはない。
だけどこれだけは言える。
――蘭子さんは、間違ってる。
蘭子さんこそ、本当の
柚木クンをこれっぽっちも
見れてない。
「柚木クンを、解放して
あげて下さい。
こんなの彼がかわいそう……!」
_無意識のうちにそんな
言葉が出ていた。
言った後、自分自身で
驚いてしまう。
そして言葉を投げつけられた
当の蘭子さんは、スッと
眉間にシワを寄せて低く
唸るように言った。
「解放ですって?
おかしなことを言うわね。
瞬也は望んで、私の元に
戻ってきたのよ」
「違う………っ!」
だからそれは取引だと、
さっき自分で言ったくせに。
柚木クンは本当は、そんな
こと望んでなかったはず。
「交換条件付きでも、それを
受け入れたことは事実。
もちろん、今も充分私に
尽くしてくれてるのよ。毎晩ね」
「………………!」
“毎晩”という言葉に
ズキッと胸が痛む。
_「ただ、どうにも余計な
ことを気にしてるみたい
だから、それを取り払って
あげたかったの。
……ねぇ、里中美咲さん。
これで、もう二度と瞬也に
関わらないと約束して
くれるかしら」
唐突に――本当に、あたしの
話も一切無視していきなり
彼女が取り出したものに、
あたしは目を真ん丸に見開いた。
バッグから出したらしい
それは、薄い茶色の封筒。
四角い何かを入れてある
ような、数センチの厚みが
あって……。
「――――――!」
お金――札束だと気づいた
途端、今まで以上に激しい
怒りが全身を駆け抜けた。
けれど蘭子さんは、そんな
あたしの異変には気づかずに
話を続ける。
_「約束さえしてくれれば、
今まで通り何も変わる
ことはないわ。
だけどもし約束してもらえ
ないなら、こちらも少し
困ったことになるかも」
「困ったこと……?」
「ええ。いずれ瞬也は、
うちの会社の幹部まで
のぼり詰める予定なの。
だけど提携企業に彼を
惑わす昔の女がいるなんて
ことになったら、彼も
やりづらいでしょう?」
――ああそっか。
あたしってば、鈍いな。
お金で片付けようとされてると
怒ってる場合じゃない。
つまりこれも、取引という
名の脅しだ。
(柚木クンとこれ以上
関わらないことを約束
しないと、あたしが辞め
させられるってわけね――)
_もちろん彼女には、それを
実行するだけの力がある。
彼女は本気だろう。
「最低―――…」
もう何度、この言葉を
繰り返したかしれない。
―――仕事か柚木クン、
どちらかを選べって?
冗談じゃない。そんなの、
天秤にかけるようなこと
じゃない。
それに仕事はあたしに
とって掛け替えのないものだ。
やりたくて選んだ、今の仕事。
苦しい時期もグッと堪えて、
ようやくチーフっていう
役職も得たのに。
手放すことなんて、できる
わけない。
「あたしは――…」
迷いは不思議となかった。
あたしは深く息をついて、
まっすぐに目の前の蘭子
さんを睨みつけた―――。
☆☆☆☆☆
_
柚木クンがいなくなっても、
オフィスの日常に変化はない。
元からあたしは直接の
関わりもなかった。
彼がいようがいなかろうが、
あたしは自分の仕事を普段
通りにこなしていく毎日だ。
雅絵がたしかに聞いたという
うちがホワイト・マリッジに
吸収されるという話も、
上層部から告げられる
気配はいっこうにない。
課長もたまに見かける
上層部の人間も、のんびり
した顔で廊下を歩いてる。
きっと吸収の話は
なくなったんだろう。
聞かなくても、あたしには
それがわかっていた。
_この会社の誰ひとりそれを
知ることはないけれど、
彼はやっぱり、この会社を
救ったんだ。
だからあたし達は今日も、
平和に営業を続けてる。
そんな日々を一週間ほど
繰り返した頃。
あたしは奈々に、拓巳と
別れたことを話した。
今までは、話せてなかった。
拓巳とあんなことがあった後、
柚木クンとも関係を持って
しまって、それからの
あたしは始終彼に
翻弄されていたし。
それに今拓巳の話をすれば、
どうしても同時に柚木クンの
ことを考えてしまう。
_だけど一週間経って、心も
少しだけ落ち着きを取り出した。
だからとりあえず拓巳の
ことだけは、話して
おこうと思って。
あたしから飲みに誘った
居酒屋で突然『拓巳と
別れたんだ』と聞かされた
奈々は、こぼれんばかりに
目を真ん丸にして、
「えっ、なんでっ!?
もしかして、あたしが倦怠期
じゃないかなんて言ったから!?」
「違うよ。奈々は無関係
だから心配しないで。
そうじゃなくて……」
「じゃ、どうしてよ?」
「………浮気されてた。アハハ」
情けない気持ちをごまかす
ように、渇いた笑いと
一緒にそう告げる。
_奈々は今度は口を
あんぐりと開いて、
「浮気!? 確かなの?」
「確かも何も、この目で
見たから。
その場で終わっちゃったよ。
あっけないもんよね」
三年もつき合ってたのに、
最後は『ゴメン』の一言で
幕をひかれた。
あたしがこれっぽっちも
本当の拓巳を見れてなかった
っていう、いい証拠だ。
「そうだったんだ……」
奈々はそう呟いてから、
しばらく黙り込む。
唐突すぎて次の言葉が
出ないという感じだった。
「ちょっとちょっと、
暗くなんないでよ!
あたしはもうふっ切れてる
から、平気なんだから」
「……ウソ。ホントに?」
_「ホントだってば」
即答したけれど、奈々は
ふに落ちない表情で
切り返してくる。
「でも美咲、ここ最近
元気なかったじゃん。
それってやっぱ、まだ
落ち込んでるってことじゃ――」
「え―――…」
ドキッとした。
“元気がなかった?”
あたしは、普段通りに
振る舞っていたつもり
だったんだけど。
だけどもし、奈々には
それが空元気と見抜かれて
たんだとしても。
―――その原因は、
拓巳じゃない。
拓巳のことは、自分でも
信じられないくらい、遠い
昔のことのように感じてる。
_終わった恋。
そう気持ちの整理がついてる
から、今はもう本当にその
ことで落ち込んでもないし、
未練を持ってもいない。
そう――あたし自身も
気づかないうちに、完全に
拓巳への気持ちは終わっていた。
その後あたしの心にスルリと
入り込んで、好き勝手
振り回していってくれた、
アイツのおかげで……。
「……本当に、拓巳の
ことはもういいんだよ」
短い間の後、あたしは
かすかに揺れる声でそう答える。
……拓巳のことは、もういいの。
あたしの中でちゃんと
終わってないのは……今は……。
_「これからは、奈々と
一緒にお一人様ライフ
満喫しちゃうかなぁ。
この歳になったら、そう
簡単に次の出会いなんて
転がってないもんねー」
胸の奥で小さくうずく痛みを
ごまかすように、あたしは
やたら軽くそう言って、
ハハッと笑った……。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
会社で些細な違和感を
感じたのは、それから
さらに数日経った頃だった。
会社と言っても、正確に
言うとオフィスでという
わけじゃない。
正しくは、社屋ビルの一階
ロビーや、ランチに出た外とか。
つまり、仕事中のオフィス
以外の場所で。
発端は、ある日の昼休みだった。
「ねぇ奈々。あの人昨日も
あそこにいなかった?」
奈々と一緒にランチに
出ようと、ビルの一階を
エントランスへと向かって
歩いていた時。
あたしは怪訝に思って、
試しに奈々にも尋ねてみた。
「え? あの人……って、誰?」
_キョトンとしている奈々に、
あたしは小さくアゴで
方向を示して、
「あそこ。談話スペースの
奥の方の席よ」
そこには、黒いロング
コートの中年男性が一人
座っている。
テーブルの上には、小さめの
アタッシュケースと新聞。
いかにもビジネスの空き
時間をそこで過ごしていると
いう感じで、別にこれと
いって不審なところは
ないんだけれど……。
(昨日だけじゃなく、
おとついもいたと
思うのよね……)
おとついの昼、フッと顔を
向けた時に、たしかあの人と
目があった。
昨日は気づかなかったけれど、
今日も同じ姿を目にした
ことで、思い出したんだ。
_だけど奈々は談話スペース
なんて目も向けていない
らしく、困ったように首を
かしげる。
「さぁ……わかんない。
てゆーかあんな所別に
気にしてないし」
「そっか……まぁそうだよね」
あたしだって以前なら、
通るたびに談話スペースを
気にすることもなかったろう。
だけど今は、無意識の
うちについ目がいってしまう。
あそこは、柚木クンと蘭子
さんが話をしていた場所だから。
(あたしが変に気にしてる
だけかな……)
あたしにはそんな習慣
なくても、このビルの
関係者であそこを休憩場所
として愛用する人も、
そりゃあいるだろう。
_この時間なら食事をしない
のかという疑問はあるけれど、
別にそんなの、不自然という
ほどのことでもないし……。
――結局その日は、
それだけで終わった。
だけどそんなふうに話題に
あげて顔もしっかり覚えて
しまうと、翌日には違和感は
さらに大きくなる。
気づいてしまったんだ。
その男の人が、あたしが
退社する時間にもそこに
いたり、逆にランチに
入った店の中で見かける
時もあるっていうことに。
(おかしい……。
なんでこんなに、あの人を
見かけるの……?)
「ん? あのオジサン、
前に美咲が言ってた人
じゃない?」
_数日後の退社時には、とう
とう一緒に帰っていた
奈々もそう言った。
そのオジサンは、今日も
いつもと同じケースを持って、
談話スペースに一人で
座っている。
……間違いない、かもしれない。
(あたし……あの人に、
見られてる……?)
ちょうどその時、また
その人と目が合って、
背中がヒヤリと冷える
ような恐怖を感じた。
男の人はすぐにあたしから
目をそらすと、どこか
とってつけたように腕時計を
確認して、ケースを手に
立ち上がりそそくさと
ビルを出ていく。
その背中が、ますます
怪しく見えてしまった。
_(なんなの、一体……?)
得体の知れない胸騒ぎを
覚えた翌日。
あたしは、さらに信じられ
ない人物の来訪を受ける
ことになる。
――一日を終え、帰宅しようと
ビルを出た時だった。
今日は奈々が後輩のフォローで
居残りになってしまい、
あたしは一人でいた。
その背中に、唐突に声がかかる。
「ちょっと、あなた」
あたしが呼ばれてるのか
どうかもわからない呼び方
だったけど――でも、
あたしはすぐに振り向いた。
その声に、聞き覚えが
あったから。
「ら―――…っ!!」
柚木クンから聞かされた
呼び名で叫びそうになって、
あわてて声を飲み込む。
_だけど間違いなく、目の前に
立っているのは。
(蘭子さん……!?)
どうしてこの人がここにいて、
あたしを呼び止めるのか。
状況が理解できなくて、
あたしはその場で硬直していた。
温かそうでゴージャスな
毛皮のコートに身を包んだ
蘭子さんは、わずかに頷いて
落ち着いた声で、
「そう、あなたよ。
ちょっとあなたに話があるの。
つきあってもらえるかしら」
「え―――…」
――話? って、一体なんの?
呆然として言葉を返せないで
いると、彼女は形のいい
眉をスッとひそめて、
「ボーッとしないでちょうだい。
ほら、ついて来て」
_「あっ………」
蘭子さんはクルリと踵を
返すと、さっさとビルの
出入口を離れ歩道に出る。
あたしがついて来るかどうか
確認もせず、ブーツの踵を
鳴らして一人で歩き始めた。
(ちょっと待って、
なんでっ……!?)
パニックに陥りそうに
なりながら、必死で考えた。
あたしと彼女の関係は、
会社社長と、その提携企業の
一社員。
たったそれだけなら、こんな
ふうに社長自らがあたしに
声をかけることなんてないはず。
だけどもし、それだけじゃ
ないとしたら。
他にあたし達を繋ぐものが
あるとすれば、それは、
柚木クン以外にはありえない。
_柚木クンとの関係は、誰も
知らないはずだけれど……
それでもその可能性を
考えた時、あたしは心を決めた。
蘭子さんの思惑は見当も
つかない。
でも、柚木クンに関係が
あるかもしれないなら、
その話を聞いてみよう。
ううん、むしろいつの間にか、
それが聞けるかもしれないと
いう期待すら芽生えてる。
だって、彼が会社を辞めて
から今日まで――今どこで
どんな生活をしてるのかを
気にしなかった日は、多分
ほとんどないんだから。
「―――乗って」
会社を少し離れた路上で、
蘭子さんはそう言って
車道を目で示した。
そこはパーキングスペースで、
一台の赤いボディの車が
停まってる。
_(なんか高そうな車――。
これ、蘭子さんの……?)
考えるあたしの目の前で、
蘭子さんはロックを解除して
運転席に乗り込んだ。
二人きりで車で移動すると
いうことに、緊張を
感じないわけはない。
でも、ここまで来て
引き下がるのも情けない。
あたしは覚悟を決めて
助手席のドアを開け、
体を滑り込ませた。
「そんなに警戒しなくていいわ。
落ち着いて話せる所に
移動するだけよ」
前を向いてハンドルを
切りながら彼女が告げた
言葉は、それだけ。
それ以上は今はまだ話して
くれる気配がなかったから、
あたしも黙ってシートに
身を預けていた。
_やがて15分ほど走って車が
到着したのは、都内にある
シティホテルのエントランス。
すでにチェックインして
いたのか、車を降りた蘭子
さんは迷わずロビーに直行し、
部屋番号を告げてルーム
キーを受け取った。
高層階にあるその部屋へ
エレベーターで移動し、
促されるまま中に入る。
中はすごく広くて豪華な
部屋で、よくあるワンルーム
じゃなく、リビングと
ベッドルームに分かれてた。
蘭子さんはあたしを残して
また一人サッサとリビングに
進むと、ソファにドサッと
体を沈めて、
_「あなたもかけて。
ワインか何か、
用意しましょうか?」
ワインって……彼女の目的も
わからず、『頂きます』とは
とても言えない。
もしかしたら緊張をほぐす
ためには、アルコールでも
入ってた方がいいのかも
しれないけど。
だけどこんなふうに連れて
来られたことで、もうほぼ
ハッキリした。
彼女の目的が仕事絡みと
いうことはありえないだろう。
彼女はあたしと内密の話が
したくて、こんな場所を
選んだんだろうから。
「……けっこうです」
あたしは短くそう言って
申し出を断り、ソファにも
座らずに立ち位置だけを変えた。
ソファの右、蘭子さんの
斜め前の位置に立つ。
_どう考えても、好意的な
話だという予感はしない。
それにさっきから、人を
威圧するような高圧的な
口調がどうにもカンに障る。
だからそれに対抗するための、
ささやかな強がりだ。
蘭子さんはそんなあたしを
見て、フッと微笑をもらすと、
「そう。それじゃあ、
さっそく本題に入らせて
頂くわね。
――あなたまだ、瞬也の
ことが好きなのかしら?」
「――――は?」
聞き返すまでに、たっぷり
数秒の時間を要した。
薄々柚木クン絡みだろうとは
察してた。
だけどそれでも、こんな
質問が飛んでくるとは
思ってもなかったから。
_(あたしが――柚木クンの
ことを好き――…!?)
蘭子さんの口調には、
これっぽっちも疑いがない。
なぜだかわからないけど、
彼女はそうだと思い込んでる
みたいだ。
「あ、今さらしらばっくれ
たりしないでいいのよ。
もう全部わかってるから。
今日は、あなたと腹を
割って話をしたいの」
「ちょっと待って下さい。
何ですか、全部わかってる
って?」
意味がわからない。
蘭子さんはあたしと柚木
クンのことをどこまで
知ってるの?
そしてどうして、あたしが
柚木クンを好きだなんて――。
(まさか、柚木クンがそう
言ったの……?)
_一瞬そんな思いがよぎった
けど、返ってきたのは全然
違う答えだった。
「あら、あなたも
気づいたんじゃないの?
――もう調べはついてるの。
あなたが瞬也のただの先輩
じゃなくて、ついこの間
までの同棲相手だったこと」
「―――――!?」
“調べはついてる”という
ワードに、敏感に脳が反応する。
「もしかして、あの怪しい
男の人――…!?」
「そうよ。私が雇った探偵。
でもとんだ出来損ないだったわ。
あなたに感づかれたみたい
だって言うから、早々に
調査は切り上げて、私が
直接出ることにしたんだ
けれどね」
_「探偵………」
……信じられない。
そんなことまでして、この
人はあたしのことを調べたんだ。
だけどどうして?
一体、なんのために?
「瞬也から私のことは
聞いてないかしら?
私は彼の親代わり。離れて
暮らしていても、あの子の
生活ぶりを把握する義務が
あるでしょう?」
「なっ………」
シレッと言ってのける
神経に、彼女の人格を疑う。
義務だなんてよく言えたものだ。
たしかに、彼女は柚木クンの
親代わりだった。
だけどそんな彼女が柚木
クンにしたことは、とても
親の代わりを務める行為
じゃないし、第一彼は成人
して、今はもう養護される
立場じゃない。
_義務だなんて嘘だ。
この人は――自分の欲望の
ためにやってるに違いない。
(最低………!)
最初からいい感情は持って
いなかった。
だけど話をして、蘭子さん
への嫌悪感が見る間に明確な
形を持ってムクムクと胸を
覆い尽くす。
この人は、本当に柚木クンを
独占しようとしてる。
彼の気持ちなんてお構い無しに。
「……あなたは、柚木クンの
親代わりなんかじゃない。
住む所と食べ物を与えて、
利用しただけじゃないですか」
自分でも驚くほどの、嫌悪を
あらわにした声が出た。
頭の片隅で、この人は提携
先の社長なのよ! とハラ
ハラしてるもう一人の
自分の声もする。
_だけど一度声にしてしまえば、
感情はもうそんなものじゃ
抑えられない。
だってあたしはこの人を、
心底軽蔑するから。
「……なんだ、やっぱり
知ってるんじゃない」
蘭子さんの返事は、驚いた
様子もなくあっけらかんと
していた。
「まぁそれなら話は早いわ。
そうよ。瞬也は私のものなの。
そういう意味でね。
だから、離れていてもあの
子のことはちゃんと把握してる」
「何がっ……」
何が把握よ。探偵を使って
調べるなんて、ただの
プライバシーの侵害だ。
あたしの内心は煮え繰り
返っていたけれど、蘭子
さんは構わずに話を続けた。
_「今までも、ずっとこう
してきたわ。
だってどんな女の所に
行こうと、最終的に瞬也が
帰る場所はただひとつ
なんだもの。
それなのにあまりその気に
させちゃ、相手の女の子も
かわいそうでしょう?」
「は―――…?」
どういうこと?
それじゃあつまり……過去の
柚木クンの同居人にも、
蘭子さんは何らかの関与を
してきたってこと?
あたしにこんなことを言う
ように。
(もしかして柚木クンが
女の人の家を転々としてた
のは、それで……?)
蘭子さんが邪魔をする
から、どの人とも長続き
しなかったんだ。
_「どうしてそんなこと
するんですか?
あなたはもう柚木クンの
後見人じゃない。
どこに住んで何をしようが、
彼の自由なはずです!」
声を震わせてそう言うと、
蘭子さんは即座にフンッと
鼻で笑った。
「だから言ったでしょう?
後見人じゃなくても、瞬也は
私のものなんだって。
あの子だってそれは
わかってるの。ただ少し
旅をしたくて、私の家を
出ていたけどね」
「そんなっ………」
(違う。そんなの嘘だ――!)
たしかに柚木クンは言ってた。
『オレはずっと彼女の所有物だ』
なんてことを。
でもあの時の彼の表情は、
とてもそれを心から納得
して受け入れてるようには
見えなかった。
_どこか遠くを見て、虚ろな――
諦めたような、悲しい目だった。
(柚木クンは蘭子さんとの
こんな関係、心底望んでる
わけじゃない。
この人は、本当にそれに
気づいてないの……!?)
「瞬也だって、色んな女と
関わってきてるけれど、
どれも本気じゃないのよ。
現に、揉め始めたらいつも
スッと自分から引いて、
次の女の所へ行くって調子
なんだもの」
あたしの考えを裏付ける
ように、自信に満ちた声で
言う蘭子さん。
だけどその声が、唐突に陰った。
いきなりトーンの落ちた
声で、彼女はこう続けたんだ。
_「―――今までは、ね。
だけど今回だけは違うみたい。
……ねえあなた。私の
瞬也に、何か余計なことを
してくれたわね?」
「え―――…?」
思いがけない言葉に、
ドクンと鼓動が波打つ。
混乱する頭でその意味を
考えようとする前に、蘭子
さんは矢継ぎ早に次の言葉を
あたしに放った。
「だからとぼけないで。
わかってるって言ったでしょう。
瞬也は何でもないと言い
張ってる。でも私にはわかるの。
あの子があんなふうに
なるのは、初めてなんだから」
「柚木クンが、“あんな
ふうに”って……!?」
_彼は今、どうしてるのか。
最も気にしていたことに
話が及んで、あたしの
鼓動は一気に高まった。
「何でもないふうを装ってる
けど、てんで上の空よ。
心をどこかに落としてきた
みたいにね。
……最初からあの会社には
何かあるんだろうとは
思ってたわ。
取引してまで会社を救おうと
するなんて、瞬也らしく
ないもの」
「…………っ!」
確信は持ってたけど、
やっぱりそうだったんだ。
柚木クンが辞めたのは、
吸収合併から会社を救う
ため――…。
「だから今回も調べさせて
もらったわ。
あなたのことはすぐにわかった。
それに、あなたとは一度
会ってたわね?」
_談話スペースで二人の
会話を盗み聞きした時の
ことを言われてると気づき、
返す言葉に戸惑う。
「思えばあの後の瞬也の
態度も、どこかおかし
かったわ……」
独り言のようにポソリと
呟いて、次に蘭子さんは
キッと目を細めてあたしを見る。
そうして明らかな悪意を
含んだ声で、吐き捨てる
ように言い放った。
「ほんの数日同棲してた
だけのくせに、随分うまく
瞬也に取り入ったのね?
もしかしてあなた、ベッドの
上がお得意なのかしら?」
「なっ…………」
忌ま忌ましさが悪寒のように
背中を駆け登った。
本当に最低だ。
どうしてこの人は、そんな
目でしか見れないの。
_「あたしと柚木クンは、そんな
関係じゃありません……!」
グッと拳を握り、かすれる
声で答える。
「そんな関係じゃなかったら、
どんな関係なの。もしかして
真剣に愛し合ってるとでも
言うつもり?
だったらそれは、あなたの
思い過ごしよ」
「違いますっ……」
―――そうじゃない。
そんなことを言うつもりはない。
だけどこれだけは言える。
――蘭子さんは、間違ってる。
蘭子さんこそ、本当の
柚木クンをこれっぽっちも
見れてない。
「柚木クンを、解放して
あげて下さい。
こんなの彼がかわいそう……!」
_無意識のうちにそんな
言葉が出ていた。
言った後、自分自身で
驚いてしまう。
そして言葉を投げつけられた
当の蘭子さんは、スッと
眉間にシワを寄せて低く
唸るように言った。
「解放ですって?
おかしなことを言うわね。
瞬也は望んで、私の元に
戻ってきたのよ」
「違う………っ!」
だからそれは取引だと、
さっき自分で言ったくせに。
柚木クンは本当は、そんな
こと望んでなかったはず。
「交換条件付きでも、それを
受け入れたことは事実。
もちろん、今も充分私に
尽くしてくれてるのよ。毎晩ね」
「………………!」
“毎晩”という言葉に
ズキッと胸が痛む。
_「ただ、どうにも余計な
ことを気にしてるみたい
だから、それを取り払って
あげたかったの。
……ねぇ、里中美咲さん。
これで、もう二度と瞬也に
関わらないと約束して
くれるかしら」
唐突に――本当に、あたしの
話も一切無視していきなり
彼女が取り出したものに、
あたしは目を真ん丸に見開いた。
バッグから出したらしい
それは、薄い茶色の封筒。
四角い何かを入れてある
ような、数センチの厚みが
あって……。
「――――――!」
お金――札束だと気づいた
途端、今まで以上に激しい
怒りが全身を駆け抜けた。
けれど蘭子さんは、そんな
あたしの異変には気づかずに
話を続ける。
_「約束さえしてくれれば、
今まで通り何も変わる
ことはないわ。
だけどもし約束してもらえ
ないなら、こちらも少し
困ったことになるかも」
「困ったこと……?」
「ええ。いずれ瞬也は、
うちの会社の幹部まで
のぼり詰める予定なの。
だけど提携企業に彼を
惑わす昔の女がいるなんて
ことになったら、彼も
やりづらいでしょう?」
――ああそっか。
あたしってば、鈍いな。
お金で片付けようとされてると
怒ってる場合じゃない。
つまりこれも、取引という
名の脅しだ。
(柚木クンとこれ以上
関わらないことを約束
しないと、あたしが辞め
させられるってわけね――)
_もちろん彼女には、それを
実行するだけの力がある。
彼女は本気だろう。
「最低―――…」
もう何度、この言葉を
繰り返したかしれない。
―――仕事か柚木クン、
どちらかを選べって?
冗談じゃない。そんなの、
天秤にかけるようなこと
じゃない。
それに仕事はあたしに
とって掛け替えのないものだ。
やりたくて選んだ、今の仕事。
苦しい時期もグッと堪えて、
ようやくチーフっていう
役職も得たのに。
手放すことなんて、できる
わけない。
「あたしは――…」
迷いは不思議となかった。
あたしは深く息をついて、
まっすぐに目の前の蘭子
さんを睨みつけた―――。
☆☆☆☆☆
_