甘い罠
木村は、退院してからも3日間は有休をもらい、会社を休んだ

どこにも出掛ける気になれず、部屋にこもりっきりだった


自分の記憶が飛んでいることを自覚した木村は、事故以前の自分の行動を、あらゆる面で確認してみた


不思議なことに、些細などうでもいいことは覚えていた

例えば、冷蔵庫に入っている缶ビールを、いつどこのコンビニで購入したものかとか

携帯の着信履歴を見て、その時どういう話をしたなど、そういうことは覚えているのだ


病院に足を運んでみたが、こういうことはよくあることで、そのうち時間が経てば思い出すこともあるし、思い出さない可能性もある。
という、曖昧な返答をもらえただけで終わった



会社に復帰してからも、やはりどうでもいいことは覚えているのに、仕事のことではスッポリ記憶が抜けていることは多々あった

自分が作ったと思われる、全く記憶にない見積書や、企画書がパソコンから出てきたこともあった

木村は会社の誰にも、友人にも、このことは話さなかった
ひょっとすると田崎は気づいていたかもしれない
でも、田崎は他言することもなかった

元々気を使う性格だったが、前以上に体調を気遣ったり、木村が忘れていることで話が噛み合わなくても、深く詮索してくることもなかった

そうしている内にも日々は当たり前に流れ、木村の頭の中には、次々に新しい記憶が埋め込まれていく

そして木村自身も、毎日の忙しさに追われ、だんだんあの事故のことも、自分が記憶を無くしていることも、あまり考えないようになっていった



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