二秒で恋して
 701、と書かれたドアを開けて、案内された彼の部屋。

「どうぞ、どうぞ~」

 そんな気の抜けた声で通されて、そのまま後ろ手にドアを閉められて、振り向いた途端に彼は笑った。

「はい、お持ち帰り終了」

 え、と見上げた私をにやりと見てから、彼はいつの間にか取り出したらしいタオルで自分の髪を拭いている。

「ちょっと、それどういう――」

 意味、と続けようとした私は、急に距離を縮められて身構える。

「ミズキさんって、思ったよりガード甘いんだね」

 そう言った彼の眼鏡についた水滴が、静かに流れていく。

 彼の言葉を理解してから、ようやく踵を返した私の腕を、意外な力で引きとめた後、またも意味深な目線が降ってくる。

「こんなに簡単に男の部屋についてきちゃ、だめだよ。危ないって、全然考えなかった?」

 両腕を捕まえられて、今までにないくらい顔を近づけられて、私は悔しさを抑え切れなかった。

「だっ、だって、あなたが着替えを貸すだけだって――それに、まさかあなたが――」

 動揺でうまく言葉にできない続きをお見通しかのように、目の前の顔が笑う。

「まさか俺なんかが、こんなことするなんて思わなかった。ってこと?」

 その瞳は、いつもの情けないものとはまるで違っていて、思わず言葉を失った。

 そんな私をしばらく見つめた後、彼は苦笑しながら新しいタオルを渡したのだ。

 そのままリビングのソファに腰掛けて、まだ濡れた髪をかきあげて、軽く一息。

 呆然と立ち尽くしたままの私を見上げて、言う。

「帰りたいなら、帰ってもいいよ。どうぞご自由に」

 そのあまりに勝手で傲慢な口ぶりに、目を剥いた私の前で、彼は笑顔を消した。

「だけど――残るなら、後悔はさせない。ずっと待ってたんだ、この瞬間を――」

 人が変わったかのような真剣な声とその瞳に、私は目を奪われた。

 そして私が見つめる先で、彼はそっと眼鏡を外したのだ。

「おいで、ミズキ――」

 レンズに邪魔されずに初めて見た彼の瞳と、突然大人の男になった彼の囁き。

 このわずか二秒間で、私はいきなり囚われた。

 恋に落ちる瞬間、って本当にあるんだと、他人事のように思った夜だった。
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