抹茶な風に誘われて。

Ep.9 静―いじめ

 ここのところ遅れ気味の仕事を片付けるべく、朝からパソコンに向かい続けた水曜の午後のことだった。

 キリのいい文面まで翻訳を終えてメガネをはずし、首を回していた俺の耳にチャイムの音が届く。

 集中している時はたまに聞き逃す時もあるのだが、まずそのせいではないだろうとわかるほど連打するふざけた訪問客。

「近所迷惑だからとっとと入れ。開いてるだろうが」

 いつもなら鍵さえ開いていれば勝手に入ってくるくせに――と金に近い茶髪頭を予想して扉を開けた俺は、意外な相手に目を見開いた。

「ごめんなさいね。顧客名簿から住所探して、勝手に来ちゃいました」

 ぺこりと頭を下げ、それでも言葉の内容ほどは反省している様子のない、中年の女性。

 フラワー藤田、と白い丸文字で書かれたグリーンのエプロンをつけた大柄の人物は、既に顔見知りになった花屋の店主の妻。

 つまり、かをるの雇い主、兼養い親みたいなものだということは承知していたから、余計に驚いた。

「……もしかして、かをるに何か?」

 まさかと眉を寄せた俺に、藤田葉子はあわてたように手を振った。

「あっ、違うの。別にかをるちゃんが病気とか事故とか、そういうことじゃないのよ? 元気だから心配しないで――その、見かけ上はね」

 最後の言葉を意味深に言った相手を、俺は戸惑いながらも部屋へ通した。

 九月も二週目だというのにまだ蒸し暑い日が続いていたから、自宅では気楽な麻の着物を着ていたのだが、それだけではないような目線に気づき、自分の胸元を見下ろす。

「ああ、失礼――ちょっと暑かったもので」

 さっき汗を拭いた時に胸元を開けたままだったらしく、メガネの奥の瞳をしばたかせて、藤田葉子は少し頬を染めていた。

 両親のいないかをるに、本当の母親みたいによくしてくれるのだといつも聞いていたから、妙な沈黙にさすがの俺もいたたまれなくなる。

 着物を整えてから、まずはお茶を出すことにした。

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