crocus
黒傘の中に、男性と全身ずぶ濡れの女。端から見れば何事かと痛い視線を送られるに違いない。そう思った若葉は申し訳なくて俯いて歩いていた。

「ここ!ここが俺んち、って言っても住み込みの身なんだけどね」

数分歩いて男性が立ち止まったのは、外装が闇夜でも白く浮き立つ西洋風の建物。木製の小洒落たドアについている小窓から、カウンターとも思える焦げ茶色の長いテーブルと、綺麗にずらりと並んだお酒のボトルが見えた。家というか、明らかに飲食店だ。

傘をたたみ終えた男の人は、金色のドアノブを勢いよく引いた。ドアベルがリリンと鳴り響いた後、奥から

「すみません、お客様。今日はもう閉店…ってなんだ恭平か」

と落ち着いた男性の声が聞こえ、やっぱりお店なんだと確信した。となると、こんな雨の雫が服の異たる所から滴り落ちる客は迷惑になると思い、後ずさりした。

『きょうへい』さんと呼ばれた優しい男の人に、やはり帰りますと断りを入れようとすれば、先に口を開いたのは『きょうへい』さんだった。

「ただいまー!あー、誰かバスタオル2枚持ってきてくんねー?」

扉の向こうから「はいはい」という軽い返事と、パタパタと走る音が耳に届く。

若葉は戸惑った。帰ります、とただ一言を言えないのは何故だろうと。優しさを無下にすることへの躊躇なのか、いや…本当は分かっている。

昔、若葉の家は花屋だった。花の香りが充満していたあの家と、ここの店から漂うコーヒーの香りは全く違うものなのに、鼻を掠めて全身を駆け巡る落ち着く温かさが一緒だから、もう少し甘えられるのなら、知りたくなった。

大好きだったあの花屋を思わせるここは、どんな店なんだろうと。
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