あの子の好きな子



「遅くなっちゃったな。帰ろうか」
「あの、私・・・」
「ん?」
「私、お手洗い行って・・・それで・・・一人で帰るから、大丈夫です」

かばんを両手で抱えて、後ずさりをするように教室の出口へ向かった。今まで、どんなに恥ずかしいことを言っても、引いたら負けと思って食い下がって来た。自分から先生のいる場所を離れるなんてこと、なかった。だけどこの時は、加速して止まらない心臓の音が苦しくて、このままだとどうかなってしまうんじゃないかと思った。

だって、先生が、私の手をすぐに振りほどかなかったから。「久保、だめだよ」と言って、すぐ振りほどいてくれれば、いつもの通り、私はすぐに現実に目が覚めた。
先生の手をしまい込むように引き寄せた時、先生は驚いたような、はっとしたような顔をして私を見た。戸惑ってきょろきょろ視線を泳がすことなく、私の目を見てたから。先生が欲しいと懇願するように先生の目だけを見つめた私に合わせるみたいに、先生も私の目を見てたから。いつでも先生は冷静に私との距離をとってたのに、今日のあの瞬間だけは、先生の思考も止まっていた。

あの一瞬、先生と私の時間が止まったのを確かに感じた。

「でも・・・」
「い、いい。平気です。先生、今日はありがとう・・・」
「あ、ああ」
「あの・・・。また、新学期!」

私はそれだけ言って一目散に教室を後にした。まっすぐにトイレに駆け込んで、座り込んで自分の胸をぎゅっと押さえた。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
自分でも自覚していた、触れてはいけないものに触れたことに動揺していた。一瞬だけ見えた、先生がシャッターを開けてくれる瞬間。その感触に緊張がとけなくて、私はしばらくトイレで深呼吸を繰り返していた。

あの瞬間。あのあと、準備室で。
先生は何を考えたのだろうか。



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