絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 
 外の風は少し肌寒い。だが、今はもうそれをネタにして、格好をつけてもらえるような関係ではない。
「ありがとう」
 香月は、心を込めて言った。
「元気そうでよかった」
 榊は、遠くを見つめて言う。
「これから、仕事?」
「……あぁ」
「そっか……。頑張ってね」
「タクシーを拾おう」
「いいよ、そこまでだし、見えてるじゃん(笑)」
 ほんの200メートルの距離にタクシーを使おうとする精神に笑えた。
「そうか?」
「うん、平気。もし次にさらわれたとしても、多分もう平気な気がする」
「そんなこと、ない方がいい」
 あまりにも真剣な榊の視線に、耐えられなくて、顔ごとそむけた。
「そ……だね」
「じゃあ、そろそろ……。マンションの門に入るまで、見てるから」
「大丈夫だよ」
「危ない」
 こちらを見つめてくれているのが分かったので、あえて、顔は見なかった。
「……分かった。じゃあ……また、ね……」
「あぁ」
 次の連絡をどうするのか、聞きたくて仕方がなかった。だが、それだけは、どうしても口にできなかった。
 榊は優しい。
 そういう人なのだ。
 医者だし、当然。
 常識の範囲内。
 期待など、どのタイミングでできる?
 答えはノーだ。
 後ろを振り返れば榊がこちらを見ているはず。
 振り返って確かめてみたい。
 だけど、それがどうしてもできなかった。
 少し、自分は大人になったのだと思う。
 多分、榊も、あの頃以上に大人になったのだと、思う。

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