≡ヴァニティケース≡
「昼の話やけど、通り魔て新人。……け、警察には届けたんか」
終業時間になると、蒔田があの話を蒸し返してきた。気色ばんだ声が彼の動揺を顕著に表している。ここまで解り易い人間に、美鈴はついぞ出会したことがない。
「いいえ、偶然通り掛かった人から助けて貰って、実害はありませんでしたので」
「ほぉか、そりゃ幸いやったな。おなごの一人歩きは気ぃ付けたらなあかんで? ほな、わいはこれで」
と、らしくない言葉を吐いて、蒔田はそそくさと席を立つ。部下が襲われたと聞いた時の言葉としてはこれが適切なのだろうが、血の通った人間の反応としては如何なものだろう。薄情で、冷淡な印象は拭えない。
「有り難うございます、気を付けます。お疲れ様でした」
美鈴は儀礼的にそう言う。その言葉が最後まで聞こえたのかも疑われる程、まるで何かに追われているかのように蒔田は部屋を出て行った。被害届を出さなかったのを聞いて安堵したかに見えたのは、警察に知られたくない事情が彼に有るからなのではないか。そんな疑念の尽きない美鈴は、暫く蒔田の出て行った方を睨んでいた。
「……間違いなく狼狽してた。あのオヤジ、逃げたわね」