≡ヴァニティケース≡
「あっ、あっ……」
美鈴は剰りの事に悲鳴さえ上げられなかった。ひたすら身を固くして、その場に立ち竦んでいた。全ての音は防音室の中で聞いているように、一切の共鳴を忘れている。死の恐怖さえ麻痺してしまっていて、コマ送りになった時間だけがまだらに進んでいた。
「危ない」と、そう言ったのは誰だろう。「キャーッ」と、悲鳴を上げたのは誰だろう。辛くも美鈴に正常な感覚が戻ったのは、凶器となったバイクが目前まで迫った時だった。
「何してるっ! 避けろ!」
その声にハッとして体の硬直が解けた。だが、轟音を纏ったバイクは目の前、距離は僅か2mだ。もう間に合わない。
美鈴は反射的に目を閉じた。激しい衝撃と痛みが体を突き抜ける……と、身構えた瞬間。
ふわりと身体が浮遊感に包まれる。そして次に感じたのはゴロゴロと回転しながら地面に当たる背中の痛みと、自分を抱えてくれている、ぶ厚い胸の感触だった。