愛を教えて
(……夢のようだ。頼む、このまま覚めないでくれ……)


卓巳は頭を殴られたような衝撃を受けていた。
そして自分に『これは偽装だ。芝居なんだ』と必死で言い聞かせる。
そうでなければ、万里子の言葉を真に受けてしまいそうだ。

泣きながら袖を掴み『妻になれるならなんでもする』『愛している』だなんて。このまま彼女の手を取り、教会に飛び込んでしまいたくなる。


性経験の有無など、検査で確実にわかるものではない。わかったところで、相手が卓巳だと証明されるものでもなかった。
後日、卓巳の不能が明らかになれば、万里子は恥を掻くどころでは済まなくなる。
しかも医者の手にかかれば、堕胎の経験まで明かされてしまうだろう。

今の万里子は過去の恋に殉じるつもりのようだ。
だが、いつ、心惹かれる男性が現れないとも限らない。その相手が、彼女の穢れなき心や、春の陽射しのような優しさに価値を見出せる男ならいいが……。

彼女の過去を知り、簡単に関係して捨てられる相手だと思うかもしれない。

万里子にそんな辱めを与えるくらいなら、自分はすべてを告白しよう。
たとえ、どれだけの屈辱を味わおうと、万里子にだけは幸せになって欲しい。

卓巳が決意した瞬間――。



「それはあんまりですわ! こんな若い娘さんに、なんて酷い仕打ちを。大奥様、結婚前にお互いを知り合うことは、今どきの若い方には当たり前のことでございますよ。私も、そういった方を何人も存じております!」


大きな声で叫んだのはメイド頭の千代子だった。


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