リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
「こんな時間まで、なにしてたんですか?」
「夕飯をね。こんなことなら、もう少し、会社で待ってればよかったよ」
「ふふ。きれいなお姉さんのところでですか?」
「四十年くらい前は、間違いなく絶世の美女だったと思われる、とてもたおやかなご婦人のお店で、家庭的な和食を頂いてきましたよ」

その言い様に、明子は顔が綻んでいく。
牧野とはまた違う、この巧みな話術が人気の秘密かなと、島野を分析した。

「家はどのあたりだい? 駅のほう?」

明子の表情を見て、島野がさらりとそう尋ねてきた。
つられたように口を開きかけ、明子の中に躊躇が生まれた。
その戸惑いに、島野は笑った。

「安心しなさい。家に上がり込んでいくようなことはしないから。私もね、一応、命は惜しいからね」
「なんです、それ?」

むっと、膨れる明子を島野は笑う。

「小杉くんの反撃も怖いし、小林さんも、できることなら怒らせたくないし。牧野も、あまり敵にはしたくない。トイプードルも、またきゃんきゃんと吠えてきそうだし。なにより、君島さんには、まだ信頼されていたいしね」

くつくつと肩を揺らして笑いながら、家に上がらないと断言する所以を並べあげていく島野に、明子は必要以上に入っていた肩の力を抜いた。
明子が聞いた限りでは、入社当時から女性関係でのトラブルが耐えない社員だったらしい。
遅かれ早かれ、いずれは女に刺されるんじゃないかと、そんな陰口が常に付いて回っていたと言う。
それが、トラブルなしで遊ぶ人気者に変わったのは、君島の下についてからだった。
どんな指導をしたのかは判らないが、それが牧野の曰わくの『君島さんの凄さ』だ。
君島に信頼されていたい。
その言葉が、明子の警戒心を解いた。

「どうか、送らせてください」

姫。
おどけながらも柔らかな声に、明子はまた吹き出して、自宅近くのスーパーマーケットの名をあげる。

「その先にある、コンビニの裏手のほうです」
「ああ。大きな銀杏の木があるあたりかな」

銀杏というその単語に、明子は可笑しくなった。
牧野に家の場所を伝えたときも、真っ先に銀杏の木がと言っていた。
街中にある木にしては大きな木だが、そんなに知られている銀杏とは、明子は思ってなかった。
< 616 / 1,120 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop