リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】

3.涙と、雷鳴の夜。

あまりよく眠れないまま朝を迎えて、明子はいつもより早い時間に家を出た。そうでもしないと、時間を忘れて、日長一日ぼんやりとベッドの中で過ごしてしまいそうだった。

有給休暇はたっぷりと残っているが、体調不良などを理由に休もうものなら、自惚れかも知らないが、心配した牧野が訪ねてきそうな気がして、休む気にもなれなかった。

寝不足でやや青白い顔色は、使えるだけのテクニックを使い、メイクで誤魔化した。
システム部に異動してからと言うもの、社内での服装は、白や黒、紺、グレーを基調とした落ち着いた色味のものが、明子の定番となっていた。
けれど、今日は珍しくピンクのカーディガンを羽織ってみた。
光沢のある白いボタンが、四つ葉のクローバーを象っている、明子のお気に入りだった。
その下には、久しぶりにボウタイ付きのベージュのブラウスを着た。
ややピンクががった柔らかな色合いだった。
なんとなく、明るい色を身にまとってみたかった。

いつもより、さらに早い出社となり、社内はまだ閑散としている。
廊下を掃除している年配の女性たちは、会社が契約している清掃会社から派遣されている人たちだった。
始業一時間前から、社内の清掃は始まるらしい。
まだ、あまり社員の姿を見ない廊下で、すでに働いている彼女たちと挨拶を交わす。

「おはようございます」
「おはようございます。お早いですねえ」

会社ではほぼ毎朝、廊下ですれ違いざま顔を合わせているので、なんとなく顔馴染みになっている人たちも多かった。
笑みを浮かべ明るい声でそう挨拶をするだけで、あまりよく動いていない頭が、次第に回転していくような気分になった。

第二システム部の部屋の前まで辿り着き、入り口で立ち止まった明子は、大きく一つ、息を吸い込み吐き出した。
いつもなら、牧野はもう出社している時刻だった。買ってきたコーヒーを啜りながら、新聞を広げているころかもしれない。


(いつも通りにね、うん)
(早いなと、驚かれたら……)
(あの仕事の話でもってしてごまかそう)
(うん)


電車やバスの中で、何度も自分にそう言い聞かせた。
そして、最後の仕上げとばかりに、もう一度、自分にそう言い聞かせ、明子は室内に入った。

「おはようございま……すぅ」

牧野の姿がないことで、挨拶が尻つぼみになっていく。


(いないじゃん)


思わず、明子の頬が膨らむ。
そのほうがいいはずなのに、いないことへの不満が募った。


(気合、入れてきたのに)
(消化不良だわ、ぷんぷん)


肩すかしのような気分を味わいながら、珍しいこともあるものねと、明子は首を傾げた。
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